三西町会児童公園の南東隅に旧跡の石碑がある。児童公園南東隅には「酒倉大神」の小祠がある。 |
酒屋神社跡地 この地に明治の頃まで延喜式内社の酒屋神社があった。 かってこの地の西側に「酒蓋池」という池があり、池の東北に「酒屋井」という井戸があって、そこから神が出現されたので酒屋権現とも称されていた。また、この地の北側に権現山古墳と言われた前方後円墳の痕跡が見つかった。この古墳が酒屋井の水で酒造りをしていた中臣酒屋連の祖神の墓ではないかと考えられている。貞観7年(865)12月従五位下の位を授かり酒屋神社と称された。 明治40年(1907)4月、屯倉神社に合祀され今は屯倉神社の境内の一角にある。 祭神として、中臣酒屋連の祖神の津速魂命を祀っている。 興室院の五十周年記念に当たりここに碑を建立した。 平成12年11月吉日 興室院 社頭石碑 |
酒屋神社 御祭神 本殿 津速魂命(酒屋権現) 酒屋神社 旧社跡 松原市三宅中6丁目2番2号 元本社は、字「西ノロ」にあり、「延喜式神名帳」によれば丹比郡三宅郷の中に酒屋神社があり、「式内社」と呼ばれる神社であったが、明治40年4月8日、屯倉神社に合祀された。又「河内名所図会」によると、三宅村の西あり、俗に酒屋権現として親しまれている。その社地の西側に「酒蓋池」があり、池の東北の隅に1間四方の井戸があつて、この酒屋井より神が出現したので酒屋権現と称したもので、付近には字名として権現下、権現坂と呼ばれている所がある。貞観7年12月(約1120年前)に、「酒泉神」に従五位下を授けたとあり、後に「酒屋神」と称されたものである。(三代実緑による)また弘仁6年(約1170年程前)の「新撰姓氏録」によると、河内国神別の項に「中臣酒屋連、津速魂命十九世孫、真人連公の後也」とあり、即ち酒屋神社は、中臣酒屋連の祖神である津速魂命を祀っている。中臣酒屋連は、古代の有力氏族である中臣氏と同族で、三宅にも当時居住していたことを伺がわせる。そして酒屋連は、屯倉の米を酒屋井の水にて酒を造り、官田からの産出の米の一部を酒米として朝廷に貢していたのではないかと思われる。 また酒屋神社が何故三宅村の西口に祀られていたのかとの疑問に、古くから酒蓋池の酒屋井の出現伝説によって答えられて来たが、近年、江戸時代の「三宅村絵図」によって、酒屋神社(旧社跡)の北側の字「リクマ」に、前方後円墳の痕跡が見つかり、中臣酒屋連の祖神の墓として祀られていることが明らかになり、墳墓の西南に当る鬼門とするところに、守護神として祀ったのではないかと考えられる。 屯倉神社由緒書抜粋 |