大海池の北西、三宅小学校北東にある屯倉神社の社殿の北側に西向きの社殿をもつ境内社として祀られている。 旧地は松原市三宅中6丁目2番2号で児童公園になっているが、その地には前方後円墳の権現山古墳が築造されていた。権現山古墳は全壊しているが、その名の由来は、酒屋神社が酒屋権現ともよばれていたことによる。 旧社地の西側に酒蓋池があり、その池の東北に「酒屋井」という井戸があって、そこから酒屋神が出現したと伝えている。この酒蓋池は昭和39年(1964)に埋め立てられた。 旧社地の400m北を南限とした彌生時代の瓜破遺跡は宏大な遺跡で、早くから大和川川床で土器が採集されたりしている。この遺跡北部で彌生時代に中国から渡来した『貨泉』や五世紀代の須恵器を大量に含む包含層や奈良時代末の寺院址が検出されている。 この遺跡は摂津国住吉郡楯原神社と等社の間に存した集落の遺跡として非常に重要な意味をもっている。 |
酒屋神社 御祭神 本殿 津速魂命(酒屋権現) 酒屋神社 旧社跡 松原市三宅中6丁目2番2号 元本社は、字「西ノロ」にあり、「延喜式神名帳」によれば丹比郡三宅郷の中に酒屋神社があり、「式内社」と呼ばれる神社であったが、明治40年4月8日、屯倉神社に合祀された。又「河内名所図会」によると、三宅村の西あり、俗に酒屋権現として親しまれている。その社地の西側に「酒蓋池」があり、池の東北の隅に1間四方の井戸があつて、この酒屋井より神が出現したので酒屋権現と称したもので、付近には字名として権現下、権現坂と呼ばれている所がある。貞観7年12月(約1120年前)に、「酒泉神」に従五位下を授けたとあり、後に「酒屋神」と称されたものである。(三代実緑による)また弘仁6年(約1170年程前)の「新撰姓氏録」によると、河内国神別の項に「中臣酒屋連、津速魂命十九世孫、真人連公の後也」とあり、即ち酒屋神社は、中臣酒屋連の祖神である津速魂命を祀っている。中臣酒屋連は、古代の有力氏族である中臣氏と同族で、三宅にも当時居住していたことを伺がわせる。そして酒屋連は、屯倉の米を酒屋井の水にて酒を造り、官田からの産出の米の一部を酒米として朝廷に貢していたのではないかと思われる。 また酒屋神社が何故三宅村の西口に祀られていたのかとの疑問に、古くから酒蓋池の酒屋井の出現伝説によって答えられて来たが、近年、江戸時代の「三宅村絵図」によって、酒屋神社(旧社跡)の北側の字「リクマ」に、前方後円墳の痕跡が見つかり、中臣酒屋連の祖神の墓として祀られていることが明らかになり、墳墓の西南に当る鬼門とするところに、守護神として祀ったのではないかと考えられる。 屯倉神社由緒書抜粋 |
酒屋神社 酒屋神社は延長5年(927)に完成された延喜式神名帳にその名がでている式内社で祭神は中臣酒屋連の祖神である津速魂命をお祀りしている。 明治40年(1907)字「西の口」にあったものが合祀された。 社頭掲示板 |
酒屋神社と神への造酒 中臣酒屋連氏が氏神として祭祀 平安時代の延長5年(927)に『延喜式』が完成しました。これは、8世紀から10世紀初頭にかけての律令法の施行細則を集大成した法典です。 この『延喜式』のなかには、神祗官式の項目があります。その神祗官式には、10世紀初頭当時の官社の国郡別一覧表ともいうべきものが載せられています。 官社は、祈年祭にあたって国家から幣帛をうける由緒深い神社であり、延喜式内社とよばれています。全国に2861社が記されており、河内国は113社を数えました。 この時期、松原は河内国丹比郡に含まれていました。丹比郡には11社の延喜式内社があり、市域関係では、三宅の酒屋神社・田井城の田坐神社と天美地区の氏神である阿麻美許曽神社の3社がみられます。今回は酒屋神社を紹介します。 酒屋神社は、西方寺(三宅中5丁目)の北側に鎮座していましたが、明治40年(1907)4月に屯倉神社(三宅中4丁目)に合祀されました。旧社地は、いまでは三西町会児童公園(三宅中6丁目)になっていますが、その地には前方後円墳の権現山古墳が築造されていました。権現山古墳は全壊していますが、その名の由来は、酒屋神社が酒屋権現ともよばれていたことによります。 社地の西側に酒蓋池があり、その池の東北に「酒屋井」という井戸があって、そこから神が出現したと伝えています。この酒蓋池は昭和39年(1964)に埋め立てられました。 酒屋神社の「酒屋」名は、酒造に関係したものと思われます。同社は、津速魂命を祀っています。『新撰姓氏録』の河内国神別に「中臣酒屋連 津速魂命 19世孫真人連公之後也」とあります。 『新撰姓氏録』が編集された弘仁6年(815)以前、三宅に有力氏族の中臣氏の一族である中臣酒屋連が住み、津速魂命の19世孫の「真人連公」を祖先としていたのでした。氏族名から分かるように、同氏は酒造を担当しており、祖先神を酒屋神社として祀ったのでした。 三宅の地は、かつての依網屯倉の故地にあたります。『延喜式』玄蕃寮式に、朝鮮半島の新羅国からの使節をもてなす際に「神酒」を三宅の近くの摂津の住道神社(現在の大阪市東住吉区住道矢田2丁目の中臣須牟地神社)で醸酒していることが記されています。 このことから、中臣酒屋連は依網屯倉で収穫された米で酒造をしていたと考えられます。もともと、中臣氏は神事に関わる職掌を世襲していましたので、酒は神に捧げるものとして造られたのでしょう。ほかにも、中臣氏の一族に中臣酒人宿禰氏が河内近辺におり、酒造にあたっていたことは同様の例です。 『日本三代実録』(901年成立の勅撰の歴史書)によると、酒屋神社は清和天皇の貞観7年(865)12月に従五位下を授かっています。 松原市HP |
酒屋神社 鍬靭 酒屋は佐加也と訓べし○祭神中臣酒屋連祖神歟、(総國風土記第三残欠云、雷大神歟、)丹北郡三宅村ノ西に在す、今権現と称す、(河内志、同名所図会)、○姓氏録、(河内國神別)中臣酒屋連、津速魂命十九世孫真人連公之後也、 類社 山城国綴喜郡酒屋神社の條見合すべし 神位 三代実録、貞観7年12月26日癸酉、授河内郡正六位上酒泉神從五位下、(郡は國、泉は屋の誤りと先達みないへり、信友は泉は家の誤りかと云り、) 神社覈録 |