川の西岸の平地に鎮座する。白砂がひかれ手入れの良い神社である。 上古この地は沼池が多く、菅が一帯に生えていたので菅生と称した。 この地には天児屋根命を祖とする中臣氏が多数居住していて、その一族が菅生の地に本拠を構えてから菅生氏と名乗り、豪族としてこの地を支配した。 その菅生朝臣が、祖神である天児屋根命を氏神として祀ったのが菅生神社の創始である。 源平合戦の時、菅生朝臣一族は平家方に加勢したため敗北して、この地を追われた。 中世天満天神の祭祀が全国的な風潮となったのに乗じ、神社境内にあった宮寺の高松山天門寺の社僧等の発願によって菅公が境内の菅沢のほとりから忽然として誕生されたという説を唱え、天神を勧請して配祀して菅生天満宮と称するに至った。 |
由緒 上古この地は沼池が多く、菅(すげ)が一帯に生えていたので菅生(須加不)と称した。仁徳天皇が難波京からこの地に丹北大道を造営せられ、反正天皇がこの近くで御誕生になってから多遅比(たちび)の地名が起り丹北郡(たじひのこほり)と称した。後平安期の中頃に丹北郡が、丹南、丹北の二郡に分かれて菅生は丹南郡に属した。 中古一時郡名廃止されていた頃、郷荘の制によって(1225年)野田荘、菅生郷と称した時代もある。 新撰姓氏録によると、河内国には天児屋根命を祖とする中臣氏が多数居住していて、その一族が菅生の地に本拠を構えてから菅生氏と名乗り、豪族としてこの地を支配する外、天平18年、菅生朝臣(あそん)の姓を賜って検非使遺や神琴師になって、朝廷に重用された。その菅生朝臣が、祖神である天児屋根命を氏神として祀ったのが菅生神社の創始である。 その後建武(1331年)歴応4年の二度の兵火に社殿、什宝悉く焼失したため記録はないが、新抄格勅符によれば「孝謙天皇、天平宝子八年本国封一戸を充て奉る」と見え、三代実録には「清和天皇 貞観元年正月25五日 甲申従五位下より従五位上を授けられる」と記し、醍醐天皇の延喜の制に於いて延喜式内大社に列し、祈年月次、新嘗の案上弊帛に預る旨記されていて、奈良朝時代には既に名社として朝野の崇敬があつかったことが立証されるから創建はそれ以前であることは確かである。源平合戦の時、菅生朝臣一族は平家方に加勢したため敗北して、この地を追われ四国や中国地方の山奥に逃避して落農となる。残存の一族によって、神社の復興に努め、その頃天満天神の祭祀が全国的な風潮となったのに乗じ、神社境内に在った宮寺の高松山天門寺の社僧等の発願によって菅公が境内の菅沢のほとりから忽然として誕生されたという説を唱え、天神を勧請して配祀して菅生天満宮と称するに至った。自来菅生天満宮の神威が俄然宣揚されて地方の崇敬をあつめるに至る。 現在残っている社殿や宝物類の殆んどはこの時代の物で当時の風格を物語っている。明治の初年、郷社に列し42年に近郷部落の村社を合併した。現在美原町、堺市登美丘地区、狭山町の市町の41部落が氏地になっている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
菅生神社 延喜式内社の一つで、祭神は天児屋根命・菅原道真を主神とし、周辺村社の祭神を合祀する。古代には、当地を本拠地とする豪族菅生氏が天児屋根命を奉斎していたものと考えられている。朝廷からも度々使いが遣わされ、奉幣に預かったことが記録に残っている。建武元年(1334)と暦応4年(1341)の2度、兵火に罹ったという。 後に天神(菅原道真を神格化)を勧請し、江戸時代には天神が主神の座を占め、菅生天満宮として有名になった。境内には、菅原道真の出生の場所と伝える菅沢がある。 桧皮葺の本殿は江戸時代初期の建物で、山門及び戎社の建物は宮寺であった天門寺の物である。宝物に、応永34年(1427)の「北野宮縁起絵巻」3巻がある。 社頭掲示板 |
菅生神社 本殿 菅生神社は平安時代に編纂された延喜式神名帳に記載のある式内社です。中世には菅原道真を祀るようになり、菅生天満宮ないし天神社と称するようになります。 境内地には神門、拝殿、幣殿、本殿の他、神宮寺であった高松山天門寺の本堂(現在は境内社恵比寿神社本殿)の他、道真ゆかりの菅澤等が現在も伝わります。 本殿は一間杜春日造で正面に軒唐破風をつけ、屋根は檜皮葺としています。一間社春日造としては規模の大きなもので、正面柱間は7尺(2m)に及びます。建築年代は高欄擬宝珠に「河州丹南郷野田庄天神御賓前万治四辛丑季三月吉祥日」の銘があり、また琵琶板・軒桁などからも同じ年号の墨書が見られることから、万治4年(1661)に建築されたことがわかります。虹梁や実肘木などの細部も17世紀の様式をよく示しており大変貴重です。 社頭掲示板 |
菅生天満宮 本殿 堺市指定有形文化財(平成18年4月指定) 菅生天満宮 本殿 菅生神社は菅生天満宮とも称し、近在では菅原道真公の生誕の地という伝承が伝えられている古社である。 神社の創建は、新撰姓氏録によると河内の国には、天児屋根命を祖とする中臣氏が多数居住していて、その一族が菅生の地に本拠を構えてから菅生氏と名乗り豪族としてこの地を支配するほか、天平18年(746)菅生朝臣の姓を賜って検非違使や神■師になって朝廷に重用された、その菅生朝臣が祖神である天児屋根命を氏神として祭祀したのが菅生神社の創始である。 建武元年(1334)暦応4年(1341)の二度の兵火により、社殿、社宝ことごとく焼失したため記録が残されていないが、新鈔格勅符によれば「孝謙天皇 天平宝字8年(764)本国封一戸を充て奉る」と見え、三代実録には「清和天皇貞観元年(859)正月25日甲申従五位下より従五位上を受けられる」と記し、醍醐天皇の縁起の制において延喜式内大社の列し、奈良時代にはすでに名社として朝野の崇敬があったことが立証されているため、創建はそれ以前であることが確かである。 ■■の一族により神社の復興に努め、天満天神の祭祀が全国的な風潮となったのに応じ神社境内の宮寺「高松山天門寺」(現えびす殿)の社■の発展によって道真公が・・・から忽然と誕生されたという説を唱え天神を勧請祭祀して管生天満宮と称するに至った。 本殿の身舎は擬宝珠の刻印や内部の琵琶板の墨書から万治4年(1661)の建立で「一間社春日造の軒唐破風付檜皮葺き」として学術的見地から認められ、平成18年4月1日堺市の指定有形文化財として登録されました。本殿袁部材はすべて解体し再建立したもので350年の歴史を物語っています。 社務所 社頭掲示板 |
郷社 菅生神社 祭神 天児屋根命 菅原道眞 祭神一説に天穂日命なりといふ(河内名所図会)、年代詳ならすと雖も、此地に住みし菅生氏が其祖神を祀りしに創れるは疑ひなきか如し(姓氏録)、孝謙天皇天平宝字8年神封一戸を充て奉り(新抄格勅符)、清和天皇貞観元年正月甲申從五位下より從五位上を授け(三代實録)、醍醐天皇延喜の制、大社に列し、祈年、月次、新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)、道真を合祀せしは後世の事にして、此地が其誕生の地といふに依りて当社に合祀せしものなるべし、境内に菅の池といふあり、之を菅公降誕の地といひ、櫻町天皇元文2年長崎の僧曇香といふもの、碑を立て、誕生の事蹟を記せりといふ、されど其所拠を知らす、明治7年郷社に列す、境内3981坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿、幣殿其他神樂所、宝庫、社務所、神幸門等を備へ、千古の老桧天を突き、風光頗る賞すべし、御神体は御木像とす。 明治神社誌料 |
菅生神社 大月次新嘗 菅生は須加不と訓べし、和名鈔、(郷名部)菅生(假字上の如し)○祭神菅生朝臣祖神歟、(総國風土記三残欠云、天児屋根命、)○丹南郡菅生村に在す、今天神と称す、(河内志、同名所図会)、例祭6月15日、○姓氏録、(河内國神別)菅生朝臣、大中臣朝臣同祖、津速魂命三世孫天児屋根命之後也、 類社 備中國窪屋郡菅生神社 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授河内國從五位下菅生神從五位上、 社頭掲示板 |