狭山神社
さやまじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】狭山神社(大 月次/新嘗)河内国 丹比郡鎮座
          (摂社)狭山堤神社

   【現社名】狭山神社
   【住所】大阪府大阪狭山市半田1-223
       北緯34度29分41秒,東経135度33分24秒
   【祭神】天照皇大神 素盞嗚命 (配祀)臣狹山命 天児屋根命 (合祀)稻田姫命 大山祇神
       明治12年『明細帳』天照皇太神・素盞鳥命・臣狭山命
       『神社覈録』「臣狭山命歟」
       『河内国式神私考』臣狭山命
       『河内国式内社目録稿本』「所祭狭山連祖神天児屋根命俗称天照大神 進乃男神」
       『大阪府史蹟名勝天然記念物』「天児屋根命、素盞鳴命及臣狭山命」

   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創建年月その他について不詳
       貞観元年(859)正月27日従五位上『三大実録』
       室町時代ごろから牛頭天王社とも称せられた
       明応2年(1493)再建
       明治5年(1872)郷社
       同40年1月幣饌供進社
       同年12月26日字明神山の村社狭山堤神社を合祀

   【関係氏族】狭山連
   【鎮座地】当初よりの鎮座地と思われる

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王社」と称していた
   【社殿】本殿住吉造唐破風桧皮葺
       拝殿・客殿・社務所・神輿庫

   【境内社】岐神社・埴玉社・足玉社・岳主社・水玉社
        狭山堤神社(式内社)・宇賀美多麻神社


崇神天皇の勅願により、狭山池の築造以前に創建されたという伝承がある。狭山池東南の羽曳野丘陵と泉北丘陵に挾まれた段丘狭隘部に鎮座している。
狭山池を見おろす丘の上のきれいな社。
狭山の神は狭山池築造の以前からこの地の鎮守であった。
南北朝から足利時代へかけてこの附近は南北両軍の接戦地となり、度々兵火の厄にあった。
現在の本殿は足利の中頃(明応2年)と推察せられる。ケヤキ材の住吉造の本殿である。
室町時代ごろから牛頭天王社とも称せられた。


由緒

狭山と呼ぶ地名は、我国所々にあるが大抵は地形の上からの呼びならわしである。その中でも河内の狭山は国史の最初から現われて現在にまで続いている。そして狭山の鎮守である狭山神社は崇神天皇の勅願により創建せられたと伝えられ、延喜の制、大社に列せられ貞観元年従五位上を授けられ河内の国神名帳に神階を正二位と記されている。明治5年に郷社に列せられる。なお現在の本殿は南北朝の時代に兵火にあい、足利の中頃室町時代の再建と伝えられる。又摂社として狭山堤神社がある。祭神は狭山池造営の功労者、入色入彦命をお祀りしている。狭山神社と同じく、かつて属していた丹比郡の大三座の一つである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




狭山神社

祭神天照大神、素盞鳴命を祀り、狭山の郷の鎮守として崇敬されてきた社格の高い式内社(平安時代の初め、醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」神名帳に記載された神社)である。創建は狭山池の築造以前といわれるが、南北朝の動乱により社殿が焼けたために室町時代に再建されたものと伝えられる。
狭山神社の境内に合祀されてある狭山堤神社は、狭山池の守護神として奉祀されたが、合祀前は現在の狭山遊園地内の池に面した松林の中に鎮座していた。
狭山堤の神は狭山池築造に功績を遺した印日子命を祭神とし、狭山神社と同じく延喜式内社である。

社頭掲示板




狭山神社

延喜式内社
狭山神社 御由緒略記
鎮座地 大阪狭山市半田1丁目223に鎮座(高野線金剛駅下車200m)
祭神 主神 天照大神 素盞鳴命
   配祀 臣狭山命 天児屋根命
      大山祇神 稲田姫命
狭山と呼ぶ土地は我国所々にあるが、大低は地形の上からの呼びならはしである。その中でもわが河内の狭山は国史の最初からその名が現れて現在にまで続いている。そしてこの狭山の鎮守である狭山神社は崇神天皇の勅願により創建せられたと伝えられており、天照大神、素盞鳴命、狭山連の祖を祭神として里人の尊崇をあつめ郷土を護らせ給い来ったのである。
特にここに狭山神と狭山堤神(堤神社…式内の旧社にし垂仁天皇の皇子にあらせられる入色入彦命、命勅を奉して狭山池を造り耕地の潅漑の便を計り給うた)二座の式内社が鎮座します事は例の少ない珍らしい事で、即ち式内社と云うのは平安朝の初め醍醐天皇の延喜年間に勅命で編纂された延喜式に当時日本国中の神社が記載されている所に列している。そして、その頃狭山が属している丹比郡には大三座小八座合せて十一座の神があった。その大三座は狭山神社と狭山堤神社(現在、狭山神社境内に鎮座】の外に菅生神社とである。
即ち狭山神は狭山池の築造以前から郷土の鎮守として、狭山堤神社は狭山池開発の功労者である入色入彦命を祭神として奉っている。この事は続日本書記をはじめいろいろの文献に表れている。現在の本殿は南北朝から足利時代へかけてこの附近は南北両軍の接戦地となり、度々兵火の厄にあい現在の本殿は足利の中頃(明応二年)と推察せられる。ケヤキ材の住吉造の本殿である。
なお神社の森から出土した唐草瓦と巴瓦を見ると、唐草瓦は藤原時代後期と推され、巴瓦は典型的な鎌倉初期の三巴文を現した行基葺の形式で、この瓦の戴ってあった建築物はかなり壮大なものであった事が想像できる。おそらく兵火のために灰燼に帰した名残の古瓦であろうと思われる。
境内には本殿の外、摂社として狭山堤神社、稲荷神社、戎神社と末社五社鎮座されている。
祭日  1月10日   戎祭
    7月13日  夏季大祭
    10月10日   秋季大祭
その他・境内末社の稲荷神社の初午祭・午滝祭、船戸祭・その他暦日の諸祭
(本殿に向かって右手より)
末社 植土社  植安姫大神・大歳神
末社 岐社   伊弉諾命・塞神
摂社 戎神社  事代主大神
    明治42年村社狭間神社より
本殿
主祭神  天照皇大神・素盞鳴命
配祀   臣狭山命 稲田姫命
     天児屋根命 大山祇神
     (配祀)
     明治42年村社狭間神社より
        素盞鳴命 稲田姫命 大山祇神
     明治40年八雲神社より 素盞鳴命
末社 岳主社  大山祇神・猿田彦大神
摂社 堤神社  入色入彦命
     明治42年村社狭山堤神社より
末社 足玉社  大国主命・天児屋根命
末社 水本社  瀬織津姫命・高寵神
摂社 稲荷神社 宇賀御魂神
     明治35年伏見稲荷より分霊
     明治42年村社宇賀御魂神社より
◎狭山神社縁起書より(一部)
抑当社者人皇十代崇神天皇依勅願令齋祭賜矣延喜式所載神名帳狭山之神社是也同天皇御宇令河内国狭山池依百姓大楽也蓋狭山者山之名也堀池揚其埴土此所所因以植田云也今手植田作半田也…

社頭掲示板



郷社 狭山神社

祭神 天児屋根命 臣狭山命 素盞鳴命
祭神臣狭山命は、天児屋根命十世の孫なり、共に狭山連の祖神たり、神社の創立年代詳ならされど、清和天皇貞観元年正月甲申從五位下狭山神に從五位上を授く、(三代実録)といへば、当時既に其名社たりしを知るべし、延喜の制大社に列り、祈年、月次、新嘗の案上幣帛に預かる、神名帳に北野狭山神社即是なり、俗に牛頭天王と称す、(河内志、同名所図会)蓋し素盞嗚命を齋き奉れるに因るべきか、されど同神を茲に祭りたる根拠明かならず、或は後世の合祀によれるなるべし、半田新町池尻等の本居神なり(名所図会)明治8年郷社に列す、境内810坪(官有地第一種)、狭山池の東に在り、本殿、拝殿、客殿、神輿庫其他の建物を備ふ。

明治神社誌料



狭山神社 大月次新嘗

狭山は前に同じ○祭神臣狭山命歟○丹南郡半田村に在す、今天王と称す、(河内志、同名所図会)、例祭8月26日、○姓氏録、(和泉國神別)狭山連、大中臣朝臣同祖、天児屋根命之後也、
考証云、天児屋命十七世孫臣狭山命、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授河内國從五位下狭山神從五位上、

神社覈録



河内国INDEXへ        TOPページへ



順悠社