平地の街中に鎮座する。
往昔大嘗会に、当社の東六丁の社有地宝田の地より生ぜし日蔭蔓を奉るを例とした。 平城天皇大同4年、日蔭大明神の神号と、 御製“神山の旧蔭の蔓かざすてふ 豊の明りのわけてくまなき”を賜った。 |
ご由緒 古事記・日本書紀に載せられている延喜式内社であり、ご鎮座になった年代は不詳であるが、第69代後朱雀天皇・第70代後冷泉天皇のご祈願所になり、809年に日陰大明神の神号を授けられたことから、今から約1200年前に祀られた由緒ある神社であります。 天皇即位の際、当社の東の社有地宝田の地より日陰の蔓を奉って以来、これが当社の神紋とされています。 また日陰の蔓は天皇即位礼や新嘗祭に罪や穢れがつかぬように祓うものとして用いられております。 ゆえに、当社は古来より 清祓い 厄祓い の神として崇められ、病気平癒・地鎮祭・七五三・厄除け・新車ご祈祷など皆様にお参りいただき、御利益をお授けいたしております。 御祭神 ながえそつひこのみこと 長江襲津彦命 (孝元天皇の孫) ことしろぬしのみこと 事代主命(大国主命の子) 社宝 中河内群誌には、『伊達政宗との大阪夏の陣の真田幸村、戦勝を日陰神社に祈願せし時、神社の馬場にて休息せりという。この時、麻地六文銭紋章の旗と刀を当社へ寄進せり』と記されています。 刀剣は戦後国に没収となりましたが、軍旗は当社に社宝として大切に保存とております。 神社の参道には、真田幸村休憩所の碑が建立されています。是非ご覧ください。 公式HP |
志紀長吉神社 本社祭神 長江襲津彦命〔軍神長寿の神〕・事代主命(五穀豊穣の神) 境内末社 琴平社 (大物主大神)・稲荷社(稲荷大神) 氏子地域 明治初年には旧長吉・瓜破・恵我・大正・藤井寺の各村の総氏神であったが現在は長吉長源一円 主な祭礼 例祭10月16日 春祭4月16日 夏祭5月25日 冬祭12月15日 社宝 真田幸村軍旗・法華経八巻をはじめ二十七巻は現在大阪市立博物館・美術館に保管きれている。 由緒 延喜式に依れば大杜に列し月次新嘗の官幣に預かる古社である。 往昔大嘗会に当社社有地の東六丁に多く繁っていた日蔭蔓を奉っていたところ、平安朝第51代平城天皇より日蔭大明神の神号と左の御製を賜る。 「神山の日蔭の蔓かざてふ 豊の明かりのわけてくまなき」 以来、日蔭の蔓を神紋とすると伝えられている。第69代後朱雀天皇・第70代後冷泉天皇の御祈願所でもあつた。御鎮座の年代は定かではない。 日蔭の蔓とは、常緑つる性シダ植物であり脂肪に富み、吸湿性がないので、傷薬に混ぜて使用されている。 又、天皇即位の大嘗祭・新嘗祭等の神事に奉仕する宮人が、蔓として頭上から左右に懸け垂れた斎忌のしるしであり、穢から身を守るものとして最も尊いものであった。 長江襲津彦命 第8代孝元天皇の孫にあたり武内宿根の第6番目の子供として生れる。 神功皇后が摂政(政事を司つている時)の時から、応神天皇と仁徳天皇に仕え、政治軍事に参与し、誠の心で国に奉仕された。晩年に幽宮をこの長吉の里に定められ二百余才をもって静かにお隠れになり、この里の守り神又軍神長寿の神として神霊幸い永久に鎮座する事になつたのである。娘の磐之媛命は、第16代仁徳天皇の皇后であり、長江襲津彦命自身は天皇家の外戚にあたる。 事代主命 天照大神の弟建速須佐之男命の五番目の孫で大国主命の二番目の子供である。 神武天皇以来、宮中の八神殿に入り今なお宮中の神殿におごそかに祭られている。この長吉の里においても昔から守り神として鎮まっておられる。 又福の伸と言われ農作物はもとより漁業も守護する五穀豊穣の神としても崇められている。常に顔に微笑みを浮かべているのは、喜楽円満の相を表している。 社頭掲示板 |
志紀長吉神社 しきながよしじんじや 大阪市平野区長吉長原。旧郷社。長江襲津彦命・事代主命を祀る。祭神長江襲津彦とは武内宿禰の子で、当地の開拓者であり、当地方に住居した玉手臣・生江臣・阿芸那臣等の祖神と崇められていた。また、事代主命は、長柄首の祖であるゆえ、ともども当地の祖神として奉斎された。『延喜式神名帳』に登載され、名神大社となっている。中古以来、大嘗祭に際しては、当社に生じた日蔭の蔓を奉ることが例となっており、神紋も日蔭の蔓となっている。例祭10月16日。 本殿(神明造四坪)、境内1532坪、末社二社を祀る。社宝として、後亀山天皇・後柏原天皇・後奈良天皇の宸翰をはじめ、豊臣秀吉・徳川秀忠の書状及び織田信長の禁制書・法華経八巻等を社蔵している。 神社辞典 |
郷社 志紀長吉神社 祭神 長江襲津彦神 事代主命 創祀年月明ならずと雖も、当祭神長江襲津彦命は孝元天皇の御子建内宿根の子にして、玉手臣、的臣阿芸那臣等か祖なりと古事記に在り、されば此等の何れかの族人が当地に住みて、其祖神を祀りしものなるべきは推知するに難からす、猶当国安宿郡に、玉手の地あり(古事記傅)其地玉手臣の住みし処なるべければ、当時此地方に此族人の榮えし事を窺ふに足るものありとす、清和天皇貞観元年正月甲申従五位下より従五位上に進めらる(三代実録)、醍醐天皇延喜の制二座並に大社に列り、祈年、月次、新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)昔は大嘗会に本社より日陰蔓を奉る例なりしを以て、一に日蔭明神ともいへり(河内志)明治6年郷社に列す、境内1027坪(官有地第一種)社殿は本澱、拝殿、幣殿、其他絵馬舎、社務所、土蔵等の建物を備へ、老樹鬱蒼として一見古社の俤を存す、此地旧名長吉なりしを、後分ちて吉富、長原の二村としつるを、近年又合して長吉村と称するに至りしなり、因に記す、大和國神名帳略解には、当社は蓋高御産霊命拷幡千々姫命を祀る、河内志に貴縣主が齊祀る所なりとあり。 明治神社誌料 |
志紀長吉神社二座 並大月次新嘗 志紀は前に同じ、』長吉は奈賀衣と訓べし、○祭神詳ならず○今丹北郡長原村に在す、今日蔭明神と称す、(河内志、同名所図会)、 考証云、今云北條天神乎、河内志、此社を黒田神社と云り、何か知れねど今は暫く志に従ふ、」又志に、社司家蔵長久永承年間神祇官狩、皆云丹比郡、與式不相合、古老伝云、此地旧名長吉、後分而為ニ、各留一字、西曰吉富、東曰長原、倶居三郡界、或属志紀、或隷澁川、復人本郡、(謂丹北也)嘗調日蔭蔓以貢大嘗會、因称日蔭明神、其蔓収在神庫、自非上貢雖神官不得漫見焉、と云り、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授河内園從五位下志紀長吉神社從五位下、 神社覈録 |