志紀長吉神社
しきながよしじんじゃ


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【六文銭軍旗】

志紀長吉神社 社宝 六文銭軍旗(真田幸村奉納)
中河内郡史によれば、「伊達政宗との大阪夏の陣の時、大阪城より退却命令が下され天王寺・茶臼山に退くことになったが、この途中幸村、戦勝を日陰明神(当神社)に祈願せし時、神社の馬場にて休息せりと云う。この時麻地六文銭紋章の旗及び刀剣を当社に寄進せり」と記されています。刀剣は終戦後に没収されましたが、軍旗は当神社で保存しています。神社参道の大鳥居側には「真田幸村休息所」の碑が建てられています。
長吉村の由来
往時の長吉郷さらには式内社しきないしゃである志紀長吉神社しきながよしじんじゃの名をとって明治二十二年村名とし、村はもと堺県平民河内国丹北郡に属したが、明治29年4月中河内郡となり昭和30年4月東住吉区に編入、さらに昭和49年7月分区し、大阪市平野区となった。



【志紀長吉神社と真田幸村公】

戦国の世に生きた幸村公は、後に天下統一を果たす徳川家康に「日本一の兵」と言わしめた、知略と勇気に溢れた武将です。真田家が旗印にした「六文銭」とは、三途の川の渡し賃であり、自らの退路を断ち、決死の覚悟での戦いに活路を見出すという「不惜身命」の心意気を表しています。
そんな幸村公が戦での勝利を祈願しご利益を得たのが志紀長吉神社です。その際に奉納された幸村公の軍旗を今も大切に保存しております。尚刀剣は、終戦後没収されました。赤地に六文銭を染め抜いた軍旗は幸村公だけのものであります。又、幸村休息所の碑は昭和10年に建立され表には「真田幸村休息所」、裏には「御神徳を讃え奉りて幸村家が思う心の内の霧晴れて神の利益に任せこそすれ」と書かれています。





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