志紀県主神社
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   【延喜式神名帳】志紀県主神社(大 新嘗/月次)河内国 志紀郡鎮座

   【現社名】志紀県主神社
   【住所】大阪府藤井寺市惣社1-6-23
       北緯34度34分34秒,東経135度37分5秒
   【祭神】神八井耳命 (配祀)伊勢大神 春日大神 住吉三柱神
       『神祇志料』神八井耳命
       『河内名所図会』磯城県主黒速

   【例祭】10月9日
   【社格】旧村社 河内惣社
   【由緒】志貴御県の守護神として創祀
       中世には楠木正成の祈願所として社頭荘嚴を極めた
       明治5年(1872)村社

   【関係氏族】志貴県主
   【鎮座地】社伝に「中世以降も度々兵火に罹り、社地又変遷することもあった」

   【祭祀対象】志貴御県
   【祭祀】江戸時代は「春日神」「河内惣社」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造銅板葺
       拝殿

   【境内社】

允恭天皇恵我長野北陵の北北東に鎮座する。
縄文時代からの国府複合遺跡のある洪積層台地の北端に位置する。
奈良時代の初期、このあたりの肥沃な水田地帯は、朝廷の直轄地として「河内の志貴の県」といわれ、これを管理する豪族は、神武天皇の長子、神八井耳命を始祖とする志貴県主及びその同族である志貴首であつた。これらの豪族たちが本貫地に祖神を祭つて、氏神として創建したと考えられる。
中世には楠木正成の祈願所として社頭荘嚴を極めたが、楠木氏の衰亡とともに祠廟頽廃し、ついで屡々兵災に罹り、祠掌市部太夫が神体を奉じて吉野に遁れるなどの事もあった。
社殿の台石は、近くにあつた衣縫廃寺の塔礎が使われている。
「衣縫廃寺」は一名井上寺ともいはれ、推古天皇33年に高麗僧恵灌が建立したもで志紀一族の氏寺と言われている。



由緒

延喜式内の古社であるが、創建の年月不詳、姓氏録河内国皇別に「志紀懸主多朝臣同祖神八井耳命之後也」とあり、同懸主等其の祖神を祀る。社は総社と称せられ、所在部落も総社といい「河内誌」に「国府属邑一」とあることから、国府を設置された時の創立であろうと考えられている。
社殿に依れば楠正成の祈願所で、当時は大いに隆昌を極めたが、楠氏衰亡と共に社壇も頽廃、中世以降も度々兵火に罹り、社地又変遷することもあった。
明治5年村社に列し、昭和21年宗教法人令により法人登記する。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




志貴縣主神社縁起

この神社は、河内古市より国府に至る南北約5kmに亘って連なる洪積層の「国府・古市台地」の北端に鎮座する延喜式内社(延喜式に記されている古社)である。
祭神は、神武天皇の長子と伝えられる神八井耳命(綏靖天皇(第二代)の兄に当る)を主神とし、天照大神、春日大神、武甕槌命、天児屋根命、比淘蜷_、表筒男、中筒男と底筒男のいわゆる住吉三神と神功皇后の各神を合祀している河内でも由緒ある神社であった。
大和時代初期の頃、柏原付近から道明寺付近にかけての肥沃な水田地帯は、大和朝廷の直轄地として「河内志貴の県」といわれ、これを管理する豪族は神武の長子、神八井耳命を始祖にする志貴縣主及びその同族である志貴首であったため、これらの豪族たちが本貴地に祖神を祭る氏神として創建したものが、この神社であったと考えられる。
三代実録の清和天皇の貞観4年(862)2月の記録によると「河内国志紀郡の人、外従五位下、行木三助(木工寮の次官)兼右大臣(藤原元経)家令 支配人 志貴縣主福祓ら三人に姓として、「宿弥」を賜い、即ち本居(本籍地)を改め、左京職(平安京の左京)に隷す。志貴宿弥は、神八井耳命の後(子孫)、多朝臣と同じ祖なり。」
という内容が記されており、平安初期の八百六十二年の二月に本籍を志紀郡から平安京の左京へ転じたことが判るのである。
その後、村上天皇の天歴年間(950ころ)諸国の諸経費を節減するために設けられた。惣社の剣により、各国々の国府(国を治める役所)に最寄りの有名社を「惣社」に充当して、その国内の有名祭神を一ヵ所に集めて祭祀されることになったため、この神社を「河内の惣社宮」と呼称することになり、近隣の集落をも「惣社」と称するようになった。
例祭は10月9日で明治5年に村社の扱いを受け、本殿、拝殿を再建し現在に至っている。
昭和51年7月25日

社頭石碑



志貴縣主神社

延喜式内の古社ですので、平安時代には創健されていますが、創建の年月は不詳です。
『新撰姓氏録』河内国別に「志紀県主多朝臣同祖神八井耳命之後也」とあり、同県主等の祖を祀ったものということがわかります。
志貴は、之岐、志紀、志幾等々に書かれてあるのも、古の志紀郡の地であって神武天皇皇子神八井耳命より出た志紀の県主及びその同族である志紀首、志紀宿禰、志紀朝臣志紀氏人等の住んでいた地で す。
社は一に春日明神又は惣社明神とも称す。鎮座地も惣社であることから河内国総社に比定されています。
社伝によれば、楠木正成公の祈願所で、当時は大いに隆昌でしたが、楠木氏衰亡と共に社も頽廃しました。中世以後度々兵火に罹り社地又変遷する事もあったようです。
明治5年村社に列し、本殿入母屋造、拝殿を有します。

大阪府神社庁



志紀県主神社

大阪府藤井寺市国府。旧村社。河内国総社。祭神は神八井耳命、相殿に伊勢大神・春日大神・住古大神を祀る。
延暮式内社であるが、創祀は不詳である。
『新撰姓氏録』に「志紀県主、多朝臣同祖、神八井耳命の後なり」とあるので、志紀県主が祖神である神武天呈の皇子神八井耳命を祀ったのであろう。
社は春日明神・惣社明神とも称され、社伝によれば楠木正成の祈願所で、当時大いに隆昌したが楠木氏哀亡とともに頽廃したという。例祭10月9日。

神社辞典



志貴縣主神社 大月次新嘗

志貴は郡名に同じ假字也、縣主は安加多奴之と訓べし、○祭神分明ならず○國府村に在す、今春日と称す、(河内志、同名所図会)、○古事記、(綏靖段)天皇娶師木縣主之祖、河俣毘売、(日本紀同じ)生御子(こは大和河内両國に係れり、日木紀、神武天皇2年2月甲辰朔乙巳、弟磯城名黒連、為磯城縣主は、大和国の事也、)同、(雄略段)初大后坐日下之時、自日下之直越道、幸行河内、上堅魚作舎者、誰家、答白、志幾之大縣主家、○姓氏録、(河内國皇別)志紀縣主、多朝臣同祖、神八井耳命之後也、』また志紀首、志紀縣主同祖、神八井耳命之後也、』同、(和泉国皇別)志紀縣主、雀部臣同祖、神八井耳命之後也、」同、(右京皇別下)志紀首、多朝臣同祖、神八井耳命之後也、」同、(和泉國神別)志貴縣主、饒速日命七世孫大売布命之後也、」同、(大和国神別)志貴連、神饒速日命孫日子湯支命之後也、
古事記伝四十一に、志幾之大縣主は、姓氏録河内國神別に大縣主と云姓ありて、天津彦根命之後也とある是なるべし、又師木縣主と云二流ありて、一づは饒速日命の後、一ッは神八井耳命の後なるを、若此二流の内にてもあらむか、若然らば、神八井耳命の後なる方なるべし、』又志貴縣主神社あるは、二流の内何レの縣主ならむ、饒速日命の後の方も、此河内の志幾にも由縁ありと云り、猶考ふべし、
氏人
三代実録、貞観4年2月23日壬戌、河内國志紀郡人外從五位下行木工助兼右大臣家令志紀縣主貞成、正六位上行戯吹佑志紀縣主福主、散位大初位上志紀縣主福依等三人、賜姓宿禰、即改本居、隷左京職、神八井耳命之後、與多朝臣同祖也、

神社覈録



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