志紀県主神社
しきあがたぬしじんじゃ


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【惣社】

村上天皇の天暦年間(947−957)に諸国の諸径費を節減するために、"惣社の制"が設けられ、各国々の国府に最寄の有名社を「惣社」に充当して、その国内の有名祭神を一ケ所に集めて祭祀されることになつた。
惣社(一の宮)の制度が設けられたころ、当社の傍に国府があつた。国府は、このあたりで「コウ」と読み、東南約1Kmにあるため、当社を「河内の惣社の宮」と呼称することになつた。


【磯城氏】

磯城県主氏は、古代豪族を論じる時、避けて通れない豪族の一つである。
しかし全くの謎の氏族である。実在したかどうかも現在なを判然としてない。記紀のいわゆる「欠史八代」の大王?の后妃の出自の多くは、磯城氏関連女となっている。事績は記録になく、磯城県主祖女と明記する后妃は、7例(記は3例)十市県主祖女は、2例(記は1例)春日県主祖女は、2例(記は1例)となっている。大王家誕生の裏に何等かの重要な関係をもった、元々(神武東征以前から)倭(三輪山西麓)の地にいた、在地豪族の1つで、東征してきた神武天皇(初代大王)に帰順した後、大王家の姻族となった一族を示唆しているように思える。
古代三輪山信仰は、大物主神(大国主の別称とされている)を祀っており、「磯城氏」とは、その大物主神を祖とする一族である、という見方もある。
過去多くの研究者、歴史学者等が色々の角度よりこの磯城氏問題に論究している。しかし何しろ確証を与える文献、証拠の類が少なく、古代神社学?からの言い伝え、僅かに記紀に残されている記事、系譜の類、10崇神天皇以降の色々な氏族の行動記事などからの類推、古地名、考古学、発掘調査、古墳研究などからの類推でしかない。
磯城氏に対する歴史観の基本的考え方として、主に次ぎの3つに分類出来る。
1)1神武天皇、神武東征、神代、欠史8代など紀元1−3世紀又は4世紀初め位までの記紀の記事は、全く史実を反映してない。8世紀、記紀編纂時の政治的背景により、史実の抹殺、改竄がされており、概ね「創作」された記述記事ばかりである。10崇神天皇から26継体天皇以前の記紀記述も年代・人物・事績は、史実と確認できるのは、中国・朝鮮など外国の古文献と一致するものに限定される。各大王の存在にも疑問多し。よって、10崇神以前である磯城氏などの存在は認められないし、日本の歴史学の対象外である。
2)1神武天皇即位が、紀元前660年位になるような記紀の紀年改竄は、間違いなく認めざるを得ない。しかし、初代神武天皇から9開化天皇までの大王(後の大王とは同じ意味ではないが)は、概ね実在していた。よってそれを支えた磯城氏をはじめとする后妃も存在していた。(その具体的名前、人数、誰がどの大王を生んだかなどは記述通りとは言えないが)又記紀に示された系譜なども紀年延長操作のために生じた不合理を是正するため色々細工がされている事は、認める。しかしその総てが後年の創作とは考えない。神話の部分にも神武東征部分にも欠史八代の部分にも史実が隠されている。これを復元解き明かすことこそ、日本の古代国家誕生の糸口となる、重要な研究である。との観点から磯城氏に関しても諸々の説が提案されている。
3)10崇神天皇が大和王権の事実上の初代大王である。これを強いて言えば「三輪王朝」と呼び、ここから徐々に拡大発展(系譜的には切れながらも)したのが大王家である。
それ以前の記紀の記述は、後世の創作、虚構の産物である。勿論10崇神以降の記述にも史実を反映していないものも多くあるが、5世紀後半になると史実に合ってくる。(中国、朝鮮の文献との整合性) この場合磯城氏は、考慮の対象外である。
「おとくに」古代豪族





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