荒川小学校の北住宅地の中に鎮座する。 人皇第58代光孝天皇御宇に創祀と伝える。 醍醐天皇の延喜10年(910)に大干ばつがあり、天皇もこれをご心配され、河内国の十二社に勅使を派遣され雨乞いをご祈願された。そのとき、神応があって喜雨が至り農民を助けたので、天皇もこの奇跡を喜ばれ親しく御拝あって、都留弥神社の社号を賜ったと伝えられる。 大正3年3月9日、村内8社合祀して旧鹿島神社の址である現地に都留弥神社を鎮座した。 旧社地は東700mにあり、「足代の戎神社」として、「布施駅」周辺の商店街の崇敬をうけており、なお都留彌神社の御旅所として祭祀されている。 |
由緒 布施の氏神、都留弥神社は布施の町の中央部、荒川の森に有り御祭神は縁を結び給ふと倶に家業を御守護なり、当神社の創祀は頗る古く、今より1100年前仁和2年第58代光孝天皇の御代の國史所載の由緒深き式内の神社である。 第60代醍醐天皇の延喜10庚午年は、春の中旬より夏至にかけて聊かも降雨なく、河水細り井水涸れて毎日赫灼たる旱天続きにて田植すること叶はず、天皇はこのことを聞し召され深く愍み給ひ河内国に十二社を選定し、勅使を遺はされて5月23日より雨乞いの御祈願をなされた御祈り空しからず神応ありて、同月25日に至ると大雨降り来て甘水田畑にうるをし喜びの声国々に満ちた、その後続いて順雨あり連年豊作が相続いたと云う。天皇もこの奇蹟に御感ありて親しく御拝あらせられ、此時に都留彌神社の社号を賜はり従五位上を贈られた。 明治5年、村社に列し、同年5月、大字永和の素盞嗚命神社を合祀し、大正3年3月9日、村社鹿島神社、同産土神社、無格社大歳神社、村社子守神社、無格社子守神社、同稲荷神社、同天神社を合祀すると同時に現在のところに移転した。社地は旧鹿島神社の址である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
式内都留弥神社 祭神 速秋津日子命 速秋津比売命 素盞嗚命 豊受姫神 少彦名命 武甕槌命 保食神 三穗彦命 推古天皇 菅原道真公 当御祭神は縁を結び給うとともに家業を御守護になり厄払い交通安全又智恵を授け給う神で仁和2年(886)第58代光孝天皇の御代の国史所載の由緒深き式内の神社です。 大正3年3月9日現在の地に移転するまでは東足代南の町にあり俗に天神さんと称していた。 この神社に限らず各大字にそれぞれ氏神を祭っていたがその当時政府の勧告に基づき久布施村七大字の神社を整理合祀の通達により左の七社は由緒顕著な当都留弥神社へ合祀することになり布施の中央部現在地に遷座合祀せり。 (略) 由緒 第60代醍醐天皇の縁起10庚午年(910)は春の中旬より夏至にかけ聊かも降雨無く河水細り井水涸れて毎日赫赫たる旱天続きにて田植えすること叶わず天皇はこのことを聞し召され慈し給い河内国の十二社を選定し勅使を遣わされ5月23日より雨乞の御祈願をなされ御祈り空しからず神応ありて同月25日大雨降り来りて甘水田畑をうるおし喜びの声国々に満ちたと云う。その後続いて順雨あり連年豊作が続いたという天皇もこの奇跡に御感ありて親しく御拝あらせられ此の時に都留弥神社の社号を賜り従五位上の神階を給われ御神鏡を下賜せられたりその後明治18年大洪水ありて社殿宝物古文書等を流失し詳細古文書不明なり。 昭和60年12月吉日 社務所 社頭石碑 |
都留彌神社 都留彌は假字也○祭神詳ならず○足代村に在す、今天神と称す、(河内志、同名所図会)、○当国若江郡都留美島神社もあり、 神社覈録 |