矢作神社
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   【延喜式神名帳】矢作神社 河内国 若江郡鎮座
   【延喜式神名帳】長柄神社 鍬 河内国 若江郡鎮座

          (合祀)長柄神社

   【現社名】矢作神社
   【住所】大阪府八尾市南本町6-6-72
       北緯34度37分8秒,東経135度36分27秒
   【祭神】経津主神 住吉三神 品陀和気命
       『神社覈録』矢作連の祖神
       『大日本史神祇志』『特選神名牒』矢作連祖経津主命

       矢作神社は矢作氏の氏神であつたと思われ、その祖神を祀ったと思われる

   【例祭】10月21日
   【社格】旧郷社
   【由緒】神位については授位の記事が文献にみえない
       貞観16年(875)「掃部神従五位下」『三代実録』
       中世、この地域は兵乱が続き、社殿も荒廃
       11世紀の前年に石清水八幡宮の掃部別宮になつた
       元禄16年(1703)拝殿を新築
       明治以後矢作神社と改称
       明治40年10月9日式内長柄神社を合祀

   【関係氏族】矢作氏の本貫神社
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「別宮八幡」と称していた
   【公式HP】 矢作神社
   【社殿】本殿流造 
       幣殿・拝殿・手水舎・社務所

   【境内社】白山神社・八坂神社・稻荷社・琴平社
   【神宮寺】明治初年の神仏分離まで神宮寺・金性寺があった

街中平地に鎮座している。
矢作神社は矢作氏の氏神であつたと思われる。社名の矢作はこの氏族名に基ずいている。矢作氏は矢を作る部民を統率する伴造であつた。 神位については授位の記事が文献にみえないので無位であつたかもしれない。
三代実録の貞観16年(875)の條にある「掃部神従五位下」を当社と見る説もある。
11世紀の前年に石清水八幡宮の掃部別宮になり、その後別宮八幡と呼ばれた。
境内に銀杏の古木がある。樹令300年と言われている。
「全国神社祭祀祭礼総合調査」には主祭神として経津主の記載がないが漏れと思われる。
境内から出土したと伝える三角縁神獣鏡が伝わっている。これは八尾市の指定文化財となっている。


矢作神社由来

当社は創建は不詳であるが、主祭神経津主神の後裔である矢作連の一族は早く此の地に住して朝命を受け矢作業に従事した。当時この地方は豪族物部氏の繁栄に伴い祖先を氏神として経津主命を祭祀したものと伝えられている。
付近には物部氏と関連した地名遺跡を多く残している。
醍醐天皇延長5年(927)に編纂した延喜式の巻の神名帳日本国中の天神地祇の国別郡別一覧表に河内国若江郡に記載されていて延喜式内社として古くより名高い神社であった。
河内国神名帳には従三位矢作神社とある。
平安時代この地は石清水八幡宮が荘園として領しており後三条天皇延久元年(1069)には荘園整理令が出て延久4年の石清水八幡領荘園に対する文書が残っており承認された荘園の中に掃部別宮とある。
この頃より八幡宮(品陀和気命)を祀し別宮八幡宮とも言われてきた。
長久2年(1042)の後朱雀天皇の綸旨には河内国若江郡八尾八幡掃部別宮とある八尾の地名が出る一番古い記録という。

社頭掲石碑



矢作神社

主祭神経津主命の後裔で矢作連の一族が早くこの地に住して朝命を受けて矢作りの業に従事した。
当事この地方は豪族物部氏が支配しており、その一族の矢作連が祖先を氏神として祭祀した。
延長5年編纂した延喜式神名帳に河内国若江郡に記載され、式内社の名高い社であった。
よって八尾の地名が当社から由来したといわれている。

公式HP



郷社 矢作神社

祭神
 経津主命 表筒男命 中筒男命
 底筒男命 品陀別命
年代詳ならずと雖も、当國に布郡努志命の裔なる矢作連なるもの住みたる事姓氏録に見ゆれば、此等が其祖神を祀り創めたるものなる事は推定せらるべきが如し、住吉神三座の合祀せられ給ひし年代亦明ならす、醍醐天皇延喜の制小社に定まり、若江郡二十二座の内に加へらる(延喜式)、後朱雀天皇長久年間品陀和気命を合祀す(社記)、其後の沿革明かならす、俗に八幡と称す(河内志)、明治6年郷社に列す、境内910余坪(官有地第一種)、社殿は本殿。拝殿、幣殿、神輿舎等の建物を備ふ。

明治神社誌料



矢作神社

矢作は夜波宜と訓べし○祭神矢作連祖神歟○八尾別宮村矢作械樋西北に在す、今八幡と称す、(河内志)○姓氏録、(未定雑姓河内國)矢作連、布都努志乃命之後也、
氏人
続日本紀、寳亀元年4月癸卯、正八位上矢作造辛国賜姓宿禰、

神社覈録



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