枚岡神社
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   【延喜式神名帳】枚岡神社 四座(並名神大 月次/相嘗/新嘗)河内国 河内郡鎮座
          (旧地)枚岡神社(本宮)

   【現社名】枚岡神社
   【住所】大阪府東大阪市出雲井町7-16
       北緯34度40分10秒,東経135度39分3秒
   【祭神】天児屋根大神 比売大神 (配祀)斎主大神 武甕槌大神
       『神社覈録』天児屋命、武甕槌命、齋主命、姫大神(準春日)の順
       『神別記』高皇産霊四世孫許止々魂尊子
       『大阪府全志』天児屋根命 比売神(天児屋根命の后神天美豆玉比売命)
             (配祀)経津主命・武甕槌命
       『河内国式神私考』天児屋根命 牧岡比当ス 天押雲根神 牧岡戸主神

   【例祭】2月1日 例祭
   【社格】河内国一ノ宮 官幣大社
   【由緒】神武天皇即位前3年神津嶽に創祀
       白雉元年(650)に現社地に遷座
       神護景雲2年(768)に、大和の春日神社に当社分霊を奉齋
       宝亀9年(778)12月9日春日大社分霊を配祀
       大同元年(806)枚岡神六十戸『新抄格勅符抄』
       承和3年(836)五月天児屋根命従二位、比売神正四位下
       承和10年(843)六月平岡大神社神主等、永預把笏
       斎衡3年(856)十月従一位平岡神幣布廿四端『文徳実録』
       貞観元年(859)正月天子屋根命正一位・枚岡比盗_従三位『三代実録』
       貞観元年(859)9月8目遣使奉幣、爲風雨祈焉
       貞観7年(865)10月21日平岡神主一人、給春冬当色軾料絹糸等
       同12月17日平岡神四前、准春日大原野神、春冬二祭奉幣
       天慶2年(939)7月8日祈雨のため平岡を初め十一社に奉幣『本朝世紀』
       正暦5年(994)4月27日疫癘を鎭定で中臣の氏人遣使
       応和3年(963)7月15日平岡等十一社に祈雨奉幣『日本紀略』
       寛治5年(1092)8月12日堀河天皇御参拝、御幣及び御太刀奉納
       永萬元年(1165)平清盛神馬・御幣奉納
       承安元年(1171)源義経太刀二振奉納
       建久元年(1190)源頼朝御剣・沙金奉納
       元久年中(1204−5)源空参籠して通夜念佛修行『御神徳記』
       建治元年(1275)7月25日叡尊再度の蒙古来襲を憂へて誦経祈願
       弘安二年(1279)3月25五叡尊大般若経を書写奉納
       暦応元年(1338)足利尊氏宝物奉納
       正平4年(1349)正月7日楠正行参詣太刀・物具奉納『御神徳記』
       天正7年(1579)9月、織田信長の兵火を蒙り本殿を初め悉くが鳥有に帰す
       慶長10年(1605)11月10日豊臣秀頼片桐且元を奉行として社殿造営
       徳川時代には、徳川氏の崇敬は薄く社領五石九斗五升
       明治4年(1872)5月14日、官幣大社

   【関係氏族】中臣氏
   【鎮座地】天種子命が勅を奉じて、神津嶽頂上に二神を鎭祭
        白雉元年(650)9月16日現社地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】創立以来連綿として継承されている
   【公式HP】 枚岡神社
   【社殿】本殿四殿とも彩色を施した桧皮葺春日造
       拝殿・祀詞殿・神饌所・社務所・上社務所・参集所・倉庫・土藏

   【境内社】
   【境内図】 境内図

奈良の春日大社本殿四宇の中の第3と第4殿の本社として「元春日」と称する。
生駒山の西麓の台地上にあり、神津嶽を背にし、北に暗越奈良街道、西に東高野街道が通つている。
生駒の尾根から現社地に及ぶ山の斜面の形状が、幾枚にも畳み重なつていることから、枚岡と称したと言われている。
神武天皇御東行の時、即位前3年に国土安定祈願の為、天種子命勅命を奉じて、東方山上の霊地神津嶽に、天児屋根大神、比売大神の御夫婦神を奉斎したのが創祀とされる。
降臨の地神津嶽にある奥ノ宮は、平坦地となつており、敷地の周囲は石柵で囲つてあり、中心に1m四方の石積みがあり、近年まで松が植えてあつて、神籬の形を残していた。奥ノ宮への登坂路は、本殿の南から通じているが、聖域としてみだりに登ることを禁じている。
孝徳天皇の白雉元年(650)に現社地に遷座し、称徳天皇の神護景雲2年(768)に、大和の春日神社に当社分霊を奉齋。
さらに、光仁天皇の宝亀9年(778)12月9日には、春日神社の一ノ宮武甕槌命、二ノ宮経津主命の分霊が当社に配祀せられた。
神宮寺としては、神護寺・元古庵・平岡寺・法蓮寺・來迎寺・眞堂寺の六ケ寺が傳えられている。
 本殿は西向きで南より第2殿、1、3、最北を4殿とし、1殿には天児屋根命、2殿に比売神、3殿に経津主命、4殿に武甕槌を祀る。 比売神は天児屋根后の天美豆玉比売命とされるが天照大神(大日霊尊)との説もある。



枚岡神社

旧官幣大社 河内国一宮
枚岡神社略記
大阪府東大阪市出雲井町7番16号
枚岡神社社務所
御祭神
第一殿  天児屋根大神
第二殿  比売大神
第三殿  斎主大神(経津主神)
第四殿  武甕槌大神
天児屋根大神は、神代に於いて神事宗源の神と仰がれ、五伴緒第一神として、天孫を輔翼し奉り祭政を掌り給ひたる大神にして、神道の始祖、文教の祖神と崇められ、御神徳は、永久に仰がれ給ひ、御霊験は無窮に輝き給ふ。
比売大神は、天児屋根大神の妃神にして、内助の功績を挙げ、良妻賢母として、淑徳高く、家庭幸福、子孫繁栄の祖神と崇めらる。 斎主大神、武甕槌大神は、ともに外交に長じ、神代の昔、二神協力大国主命をして、此の国を天孫に献らしめ、国土を安定したる功神で、願望成就の神と崇めらる。
御由緒
神武天皇御東行の時、紀元前三年に国土安定祈願の為、天種子命勅命を奉じて、東方山上の霊地神津嶽に、天児屋根大神、比売大神の御夫婦神を奉斎したる最古の大社であって、孝徳天皇の白雉元年に、平岡連等が山上より現地へ奉遷し、次いで光仁天皇の宝亀九年に斎主大神、武甕槌大神二神を合祀し奉りて、四柱の御祭神が四殿に御鎮座になっている。古来朝廷の御崇敬最も厚く、平城天皇大同元年の牒によれば、六十戸の封戸を充てられ、清和天皇貞観七年に春秋二祭に神祇官人差遣奉幣の制を定めて之を永例とせられた。醍醐天皇の御代延喜式神名帳に記載して、名神大社に列せられ毎歳祈年月次相嘗新嘗の案上官幣を献られ、更に春冬上申日に特に枚岡祭を行い、神祇官人が祭事に供奉する例であった。
又神封神領の寄進、臨時奉幣等幾度もあって、封戸の調庸租穀は社に収めて、修社の料にせよと定められた。神階は仁明天皇の承和年中従三位勲三等を授けられしより度々の昇階を経て、清和天皇の貞観元年に正一位の極位に叙せられたのである。
尚寛治5年には、堀川院御参拝神馬等奉り給ふと伝えらるるのみならず後世百石の社領を有していたのであった。
されば明治4年5月14日官幣大社に列せられ、爾来毎年三大祭には供進使参向幣帛の供進があり、又大嘗祭等国家有事の際には其の時々勅使を差遣されて之を奉告さる。更に昭和12年6月14日、貞明皇后の御参拝を仰ぎ奉りてよりは神威一段の高きを加えた。随って広く一般の崇敬を受け、諸臣武将等の尊崇甚しきものあり、平清盛、源義経、源頼朝、楠正行、豊臣秀頼、近衛前久、僧文覚、源空、叡尊等の崇敬は、其の一例であるが、一般衆庶より祖神として根強き崇敬を受け中世よりは河内国一宮として、地方人の尊信殊に厚く、平岡大明神、元春日平岡大社等尊称され広き厚き信仰を集めている。
摂社末社
摂社若宮神社は、天忍雲根命(天児屋根大神の御子神)を奉斎し、本社の南方数十歩の樹蔭に往古より鎮座す。
社殿近くに出雲井あり、御神徳に深き関係あることを思はしむ。
末社天神地祇社は、中世より御鎮座の処へ明治五年に境内各社の天津神国津神と、氏地内の各氏神とを合斎し、摂社の南方数十歩の小丘上に鎮座す。共に一般の崇敬広く、殊に旧氏神関係者の信仰が最も厚い。
諸祭
大祭に例祭2月1日、祈年祭2月17日、新嘗祭11月23日、秋大祭10月15日あり。秋大祭は10月14日宵祭、15日報賽祭、総氏子直接奉仕神恩報謝の至誠を捧ぐる大祭にて両日御神慮を慰むる神賑とし、太鼓台十数台及山車の奉納あり、参拝者広き境内を埋む。15日には御神幸を仰ぎ、氏子有志及び多数稚児の供奉する盛儀である。又両日とも終日神前にて御神楽の奉奏あり。特殊祭に、粥占祭1月11日、15日、平国祭5月21日、上申祭12月第1申日、注連掛及初穂祭12月25日あり。
粥占祭は、1月11日早朝神饌所に於いて、一社伝来の古式により斎火を以って小豆粥を焚き其の中に五十三本の占竹を入れ煮たる後之を神前に献り、農作物の豊凶に付御神示を受け、又同時に12本の占木によりて、各月の晴雨等に付御神示を仰ぎ之を印刷に付し1月15日早朝より一般に授与し、十時より報賽祭を執行して農作物の豊穣と各産業の隆昌、万民の繁栄を祈願し、続きて終日特志者の御神楽を奉奏す。
平国祭は、5月21日に行ふ、祭神の崇高なる御神徳を追憶し国家の安泰を祈願する祭典である。上申祭は12月第一申日に行ふ祭典にして、古貞観7年枚岡祭なる勅祭を行はれ、之を常例と定められたる聖旨を永く記念する重儀である。
注連掛及初穂祭は、氏子一同の報恩祭にして、12月25日早朝より、氏子参集、先づ大注連縄を新製して注連柱に張り渡し、神に献し、其の下にて諸員三度哄笑神人倶に和楽し、続きて氏子全般より献る御初穂を神前に奠供して神恩を拝謝し生業の発展と氏子一同の繁栄に付御神護を祈願する祭典である。
諸祭に歳且祭1月1日、梅花祭3月15日、風鎮祈願祭8月25日、風鎮報賽祭9月25日を始め普通の中小祭恒例式を執行し、又月次祭は毎月一日に之を行ふ。
社殿等
枚岡神社は、初め神津嶽の磐境に奉祀されたのであるが、孝徳天皇の御代に二所の宮殿を新営奉遷し光仁天皇の御代に、祭神増祀により二殿を加へ四殿となり、祭神四柱が御鎮座になり其の後度々の造営を経ているが、いつも四宇並立し四柱の大神を各殿に奉斎して、今日に及んでいる次第である。御造営中、慶長年間豊臣秀頼が片桐且元を奉行として造営し奉ったことも伝へられているが、現代の御本殿は、四殿共文政九年の造営である。其の構造形式は枚岡造と称し屋根桧皮葺木部に彩色あり、荘重古雅を極め、東大阪市の重要文化財に指定されてうる。
其の他祝詞舎、拝殿共に桧皮葺素木造である。尚神饌殿、上社務所、社務所、参集所等あり整然として樹間に並ぶ。
又参道に木鳥居、横参道に新石鳥居、松の馬場に古石鳥居あり共に高く大きい。
境内地
境内地は約七ヘクタールに及び枚岡山の中腹から其の麓に到る広汎な地域で風致に富み生駒連峰中最も良く保存されたる樹林である。境内中、南方に梅苑あり、枚岡梅林と称して其の名高く、花時数百株の梅樹競ひて芳香を送り神と人とを慰む。土地高燥、大阪の大平野を一眸に収め得る風光絶佳の神地である。
東大阪市の名勝に指定せられ、又其の管理清掃等は大阪府よりの御奉仕を煩している。
御鎮座地
枚岡神社は、大阪府東大阪市出雲井町に鎮座、背後に生駒山脈を負い、大阪平野に向って御鎮座になっている。
交通は大阪難波奈良間を通ずる近畿日本鉄道奈良線の普通車に乗車して、枚岡駅で下車すれば数十歩にして社頭に達する。

由緒書



神宝

古銅製の八稜鏡一面
天国作短刀一口
桃核製後藤祐乗刻の群猿遊船一個
白鹿図一幅
後陽成天皇宸翰短冊一枚
関白近衛基煕筆短冊一枚
枚岡神社神域古絵図一幅
社記一巻(原本巻物にあらず、保管上巻物風に装釘)
秀頼奉納の釣燈籠並びに行合橋の擬宝珠一個。



枚岡神社

 ひらおかじんじゃ 大阪府東大阪市出雲町。旧官幣大社(現、別表神社で社伝によると神武天皇が大和国に肇国の際天種子命に命じ、その祖神天児屋恨命を神津嶽に祀つて国の言向けを祈ったのに始まるという。
天児屋恨命は『記紀』などに見える宮延の祭祀を務める神で、中臣氏後の藤原氏の祖神である。中臣の支族平岡連は河内国に栄え、祖神を祀ったのが本社であろう。現在の鎮座地は生駒連山神津嶽の西の麓である。
第一殿に天児屋根命、第二殿に比売神、第三殿に武甕槌命、第四殿に斎主命を祀る。
奈良の都に春日大社が創祀される時、本社から第一・第二殿の神を迎えて奉斎している。世に元春日と呼ばれる理由である。春日大社の成立後第三・第四殿の鹿島、香取両神宮の祭神を配祀した。『延喜式神名帳』はこの四座の神を列記して名神大社に列している。皇室の外戚家の祖神として官祭に預かり、『続日本後紀』『三代実録』など国史の記載がある。中世河内国一の宮を称し、国中の信仰を集めた。春日造の本殿四宇が並び、正面に祝詞舎、透塀をめぐらし、その前面に拝殿が独立して建つ。例祭2月1日、10月15日。春秋二季の祭は氏神祭の古制を止めたものであろう。現在秋祭は里祭といい、氏子の町内から十数台の太鼓台が出て社参する。摂社に若宮神社がある。

神社辞典



枚岡神社四座 並名神大月次相嘗新嘗

枚岡は比艮乎加と訓べし、和名鈔、(郷名部)讃良郡枚岡、(假字上の如し)祭神天児屋命、武甕槌命、齋主命、姫大神、(准春日)○出雲井村北に在す、(河内志)○式二(四時祭下)相嘗祭神七十一座、枚岡社四座、(坐河内国)」同三(臨時祭)名神祭二百八十五座、河内國枚岡神社四座、』祈雨祭神八十五座、(並大)云々、枚岡社四座、〇当國一宮也、(一宮記)○神別記云、高皇産霊四世孫許止々魂尊子、河内国平岡神也、○姓氏録、(河内國神別)平岡連、津速魂命十四世孫鯛身臣之後也、○永寓記云、平岡社、(蹟薪笛経本官被成神主)○総國風土記第三残欠云、平岡神社、所祭天児屋根命、
神位
続日本後紀、承和3年5月丁未、奉授河内國河内郡從三位勲三等天児屋根命正三位、從四位下比売神從四位上、同6年10月丁丑、坐河内国河内郡正三位勲三等天児屋根命從二位、從四位上比売神正四位下、』三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授河内國從一位勲三等枚岡天子屋根命正一位、正四位上勲六等枚岡比盗_從三位、
官幣
文徳実録、斉衡3年10月己丑、加從一位平岡神幣布廿四端、」三代実録、貞観元年9月8日庚申、河内国枚岡神、遣使奉幣、為風雨祈焉、
祭祀
三代実録、貞観7年10月21日已巳、敕、河内国平岡、又春秋二祭、差神祇官中臣官人一人、検校祭事、兼付幣帛、又差琴師一人、供奉祭場、主為恒例、同年12月17日甲子、敕、河内國平岡神四前、准春日大原野神、春冬祭奉幣、泳以為例、』式一、(四時祭上)平岡神四座祭、云々、右春2月冬11月上申日祭之、官人一人率難色人供奉祭事、
封戸 社領
式三、(臨時祭)凡枚岡社、武藏國封戸調庸租穀者、停収此官、収社充修社料、○当代社領五石九斗五升
社職 把笏
続日本後紀、承和10年6月乙丑、河内國河内郡從二位勲三等平岡大神社神主等、永預把笏、」三代実録、貞観7年10月21日己巳、勅、河内國平岡神主一人、給春冬当色賦料絹布等、一如平野梅宮神主、云々、」符宣抄、天暦6年5月11日、応補坐河内國平岡神社物忌大中臣時子事、右得宮去正月13日解偶、彼社物忌大中臣吉子長体之替、撰定件時子、言上如件、望請官裁、被補物忌、將令勤職掌者、中納言從三位兼行左術門瞥源朝臣高明宣、依請者、官宜承知、依宜行之、符到奉行、

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