枚岡神社
ひらおかじんじゃ


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【公式HP】

主祭神として祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、「日本書紀」神代巻に「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)はその后神です。
経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、香取・鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。
第1殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
天兒屋命・天之子八根命・天子屋根命とも書き、太詔戸命・櫛眞智命中臣の神とも称え奉られます。
天の岩戸開きに功績をあげられますが、はじめてお祭りを行い、祝詞を奏上された事から「神事宗源(しんじそうげん)」の神と称えられています。
天孫降臨の神話では、瓊々杵尊(ににぎのみこと)に御供仕え奉った神々の中でも、特に重責を担った神であり、天照大御神(あまてらすおほみかみ)・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)から、皇孫を助け斎ひ護るようにとの神勅により、その重責をはたし皇運の基礎を固めきづかれた事から、「天孫輔弼(てんそんほひつ)」の神とも称えられています。
第2殿 比売御神(ひめみかみ)
諸説があり詳細は不明ですが、天美豆玉照比売命(あめのみづたまてるひめのみこと)とも称えられ天児屋根命の后神で、常に夫神を助けられ内助の功績多く、御子神天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を強く賢く育てられる等、良妻賢母、女性の鑑と仰がれています。
第3殿 経津主命(ふつぬしのみこと)
香取神宮の御祭神。比古自布都命(ひこじふつのみこと)・斎主命(いわいぬしのみこと)・伊波比・斎ノ大人とも称え奉られています。
武甕槌命と同じく、神話「国譲り」において出雲国に派遣され、見事にその役を果たされた神様で、武運守護の大神と仰がれています。
第4殿 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
鹿島神宮の御祭神。建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)、建御雷神建御賀豆知命、布都御魂神と称え奉られています。
神話の中の国譲りにおいて、高天原の最高司令神の名で地上の国を平定する切り札として出雲国に派遣され、見事にその役を果たされ、国の平定における武力と権威の象徴ともいうべき神様です。
創始
枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3年前と伝えられています。
神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(あめのたねこのみこと)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀とされています。
※皇紀とは日本独自の暦で、西暦はキリスト誕生を元始とするが、日本の皇紀は、初代天皇西暦よりも660年前に皇紀がはじまったとされます。
神武御東征(じんむごとうせい)
神武天皇(神倭伊波禮毘古命:かむやまといはれびこのみこと)は、日本の国を治めるため、九州の日向高千穂から東に向かわれ、地方を治めながら日本の最中大和の国、畝傍山の橿原の地でご即位されたと日本書記に記されています。これを神武御東征といいます。浪速(今の大阪湾、当時の湾はかなりいりくんでいたと伝わる)に上陸され、生駒の山を越えて大和の国へ進もうとされたが、生駒の豪族であったナガスネヒコの大軍がこれを阻止しようと戦がおこってしまいます。思うように進むことができないばかりか、兄である五瀬命(いつせのみこと)が流れ矢によって負傷してしまうなど、かなりの痛手を負い、ここに神武天皇は、神のお告げによって「天照大御神の子孫でありながら、日に向かって敵を討つことは神の道に逆らうものである」と悟られ、天神地祇を祀った後、皇軍を還して和歌山紀州路から吉野を通り、日を背にむけて大和へ進むことを決意されます。
この時に、天児屋根命・比売御神の二柱の神を霊地神津嶽にお祀りし、国土の平定を祈願され、その後、熊野を経て大和橿原の地に即位されます。
由緒
枚岡神社は、永く神津嶽にお祀りされましたが、孝徳天皇の白雉元年(はくちがんねん)(650年)9月16日に、平岡連らにより山麓の現地へ奉遷されたと伝えられています。神護景雲(じんごけいうん)2年(768年)に、天児屋根命・比売御神の二神が春日山本宮の峰に影向せられ、春日神社に祀られました。このことから当社が「元春日(もとかすが)」とよばれる由縁であります。
その後、宝亀(ほうき)9年(778年)春日神社より、武甕槌命・斎主命の二神を春日神社より迎え配祀し四殿となりました。
大同元年(806年)には60戸の封戸を充てられ、貞観元年(856年)天児屋根命の神階は正一位の極位を授かり、延喜式神名帳では名神大社に列せられました。その後勅使参向のもとお祭りが行われ、又随時、祈雨、祈病平癒の奉幣に預かる等優遇を受け、寛治5年に堀河天皇が参拝されるなど、勅旨により創始されたことにより朝廷から特別な尊崇をうけたことがうかがわれます。
社格
旧官幣大社 明治4年5月14日官幣大社に列せられる。この時同時に官幣大社に列せられた神社は、当時数十万社の神社中、全国を通じて29社に過ぎませんでした。
延喜の制 延喜式神名帳「枚岡神社四座並明神大月次・相嘗・新嘗」と記されています。中世、「一の宮制度」の成立と共に、河内国一之宮と崇められました。
社名のおこり
古くは枚岡社・枚岡大明神・平岡社・平岡大明神などといわれていた時代もあります。
枚岡は「ひらおか」と読み、その名前のおこりは、
一、 山嶺平夷の所に創建せられたるより平岡と称せし
一、 社地より南方は概ね平坦にして小高き岡なりしが故称せし
とあり、ひとひらの岡が地名となり社名となったといわれています。
また、やまとことばには、それぞれ一字一字に意味があったとされ、「ひ」は神様の御霊(みたま)、「ら」は沢山、一杯という意味があり、ひらおかは神様の御霊が一杯の「神気」満ち満ちた神社とも言えます。
歴史
社家 水走家(みずはやけ)・鳥居家(とりいけ)
勅命を奉じ天種子命が、天児屋根命・比売御神を祀り、その後もこの地に留まった皇軍の一部であり、祭祀を代々司ったとされています。天児屋根命を祖とする者が代々祀職についたとされ、この一族のことを「平岡連(ひらおかむらじ)」とよんでいます。(後の中臣氏)
西大寺叡尊上人
鎌倉時代、西大寺復興に力を注ぎ、授戒をうたい信者を得て、全国に700寺を築いた真言律宗の僧侶。
蒙古襲来の情報をえた上人は、建治元年(1275)7月25日に、枚岡神社に参り、敵国降伏の祈願のために大般若経の転読を行ったとされています。また、弘安2年(1279)3月25日にも同じく当社へ参り、聖朝安穏を祈願したと伝えられています。その際の経巻が、京都府宇治市の地蔵院に所蔵されています。


【枚岡連/水走/鳥居氏】

大和と河内・難波を結ぶ古代の主な道の一筋に生駒山脈を鞍部を通る暗峠越えの道があった。枚岡神社の北辺の道がそれで、東へ上ると暗峠に至るのである。枚岡神社の起源は、神武天皇東征のとき中臣氏の遠祖が祖神天児屋根命と比売神とを、この地の神津嶽に祭ったのに始まるという。しかし、この伝承は時代的に新しいものと思われる。
 とはいえ、枚岡神社が「元春日」とも呼ばれるように、奈良の春日神社創建の際、天児屋根命をこの枚岡神社から迎えたというのは、枚岡神社が由緒のある古社であり、中臣氏の重要な一拠点であったことを示している。こうして枚岡神社は、中臣氏ひいては藤原氏の氏神として、春日神社と並んでのち長く崇敬が加えられた。
 『延喜式』の神名帳には「枚岡神社四座」とあって、四座とも名神大社とされ、祈年・月次・相嘗・新嘗および祈雨の奉幣に預っている。祭神四座というのは天児屋根命・比売神・斎王神(経津主神)・武甕槌命で、宝亀九年(778)斎王神は下総の香取神宮から、武甕槌命は常陸の鹿島神宮から迎えて増祀したという。すなわち、春日神社創建後二十年目に春日と同体になったのである。なお、神津嶽から西北麓の現在地へ社殿を移したのはそれより古いことだが、神津嶽はいまも枚岡の神体山と考えられている。
 大同元年(806)六十戸の神封が寄せられ、貞観元年(859)には正一位の神階が贈られ、さらに同七年には春秋の枚岡祭に奉幣の制も定められた。
 神職は、中臣系の枚岡連で、のちに大中臣氏を称し、神主・物忌・禰宜・祝を世襲し、水走・鳥居氏などに分かれた。水走氏は中世に在地の武士団を統率して力があったことが知られている。降って近世になると、幕府から朱印領百石が寄せられた。





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