生駒を越えて奈良平群へ降りる峠道、十三峠への登り口の南に位置する。 鎮座の麓の地である、現在の高安中学校・北高安小学校の敷地付近からは玉作りの砥石、原材石などが採集されており、この地域が玉作りの遺跡である。 高安山麓で玉作りに従事した氏族玉租宿禰の氏神であったと思われる。 また、この神社の神である玉祖命は、もと周防国一宮に鎮座していたが、和銅3年(710)、周防国から摂州住吉浦をへて、この高安の地に渡って鎮座したとされている。 途中、住吉明神から、恩智神社が広大な領地を持つているので、鎮座の地を分け与えてくれるであろうと教へられた。恩智神社は、高安郡七郷のうち、六郷までも玉祖明神に与えたという。玉祖神は感謝のため、毎年9月恩智社に神幸して神供・神馬をささげる慣わしであったという。 中世には発展し、高安を代表する神になつた。 かつては神宮寺として「薗光寺竹之坊」が参道の石段下の脇にあったが、明治維新後の神仏分離により廃寺となった。 神主津村家は和銅3年(710)の遷座以来の神主と伝えている。 |
玉祖神社 式内社で玉祖明神とか、高安明神ともいう、高安11ヶ村の氏神で、和銅3(710)年周防国から分霊を勧請したもので、祭神は櫛明玉命である。この地に玉造部の人々が住んでいたので、その祖神を祭ったものであろう。 寺宝も多く、北条時政の制札(重文)男女神像(府重美)樟樹(府天然記念物)豊臣秀頼寄進の石灯籠などがある。 神社の北方を東西に十三街道が走り、大阪の玉造に走り、玉祖玉造の地名からこの街道の持つ意義は大きい。 八尾市教育委員会 社頭掲示板 |
玉祖神社 たまのおやじんじや 天石屋戸隠れの際、八尺勾玉を奉献し、天係降臨に際しては瓊瓊杵尊に倍従した玉作連の祖神・玉祖命(天明玉命、羽明玉命、櫛明玉命ともいう)を祀る神社。玉作部は『新撰姓氏録』(右京、河内国神別)によると「高御牟須比乃命の十三世の孫大荒木明(建荒木明)」とあり、その祖を天太玉命とする斎(忌)部氏に率いられた。斎部氏は、鐘・玉・矛・盾・木綿・麻・宮殿などを造ることを職とし、その部族は各地方にわたっていた。『延喜式神名帳』には「玉祖神社(河内国・周防国)太玉命神社、櫛玉命神社(大和国)」と見える。また、防周国(山口県南東部)に鎮座する玉祖神社(防府市鎮座)の近くに同名社数社を見る。→玉祖神社・玉作湯神社 ▽大阪府八尾市神立。旧郷社。式内社。『和名類聚抄』にも玉祖の地名を載せ「多万乃於也」と読んでいる。祭神は玉祖神他一五柱の神を祀る。和銅3年(710)周防国一の宮玉祖神社(山ロ県防府市)より勧請という。源頼朝は高安郷の総社とし、社殿を造営し神領を寄進した。江戸時代徳川家康ば朱印状を寄せる、宝物である文治元年(1185)の木造制札は重要文化財の指定を受ける。例祭10月10日。 神社辞典 |
玉祖神社 玉祖は多末乃於也と訓べし、和名砂(郷名部)玉祖、(假字上の如し)○祭神分明ならず○神立村に在す、今高安明神と称す、(河内志、同名所図会)、例祭9月10日、○日本紀、(神代下)一書曰、玉作上祖玉屋命、」古事記、(神代段)科玉祖命、令作八尺勾玉之五百津之御須麻流之珠、○姓氏録、(河内國神別)玉祖宿根、天高御魂乃命十三世孫建荒木命之後也、」同、(右京神別上)玉祖宿根、高御牟須比乃命十三世孫大荒木命之後也、また玉作連、高魂命孫天明玉命之後也、天津彦火瓊々杵尊降幸於葦原中國時、與五氏神部陪從皇孫降來、是時造作玉壁以為神幣、故號玉祖連、亦號玉作連、 類社 周防國佐婆郡玉祖神社 氏人 兵範記、久安5年10月26日の條に、木工允玉祖親宗あり、 神社覈録 |