天正10年(1582)織田軍の兵火に遭い、社殿等焼失した跡地。 さらに約10分ほど昇っていくと杣口金桜神社 奥社がある。 |
金桜神社奥社地跡 町指定文化財 昭和51年3月30日 金桜神社は仁寿3年(853)大和国より勧請米沢山大禅寺の鎮社なり、この地を高天が原と称し山岳信仰と密教との修験道場の聖地とした頃は金峯山東登山道の里宮として栄えた。 ここより黒駒に達する道を道者街進という。天正10年(1582)織田軍の兵火に遭い、社殿等焼失す。以後里宮は二本松を経て正徳2年(1712)に今の地に移る。奥社地には往事の石垣、建物の礎石、古代文字の碑が残され、附近には東谷、西谷、青山千坊、護摩坂、堂の上、大門くだりなど社人、社僧の実権を偲ぶ史跡を存す。 平成16年12月 牧丘町教育委員会 社頭掲示板 |
金桜神社奥社地跡 金桜神社奥社地跡は、金峰山信仰の里宮では県内最古といわれる金桜神社(杣口)の奥社地一帯に広がっており、15箇所ほどのテラス、礎石、石段のほか、遺跡西側から3棟の建物跡が検出されています。これらの建物は、仏堂など仏教建築的要素が強いものであったと考えられ、発見された遺物から、この寺院跡の創建は平安時代まで遡る可能性があることが解りました。 昭和37年に甲州市勝沼町柏尾の柏尾山経塚から出土した経筒の銘文には、康和年間(1099〜1103)に勧進僧寂円が「山東郡内牧山村米沢寺」の千手観音の前で写経した経文を、柏尾山寺(大善寺)まで運んで供養し埋納したと書かれており、この寺院跡が「米沢寺」に当たる可能性もあります。山岳信仰の様相を考える上で、大きな可能性を秘めた遺跡です。 山梨市HP |