金桜神社
かなざくらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】金桜神社 甲斐国 山梨郡鎮座
          (旧地)金峯山

   【現社名】金桜神社
   【住所】山梨県甲府市御岳町 2347
       北緯35度46分9秒,東経138度33分21秒
   【祭神】少名彦命 大己貴命 素佐之男命 日本武命 櫛稻田媛命
   【例祭】4月21日 春例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】景行天皇40年ヤマトタケルが東征の帰路に参詣社殿の造営
       雄略天皇10年(466)神勅により御岳山に社殿が造営
       雄略朝山宮の金峯山よりこの地にうつした
       大宝2年(702)大和国金峰山から蔵王権現と金精大明神が勧請
       大正5年県社
       昭和30年本殿・拝殿焼失

   【関係氏族】
   【鎮座地】雄略朝山宮の金峯山よりこの地にうつした

   【祭祀対象】金峯山
   【祭祀】江戸時代は「御嶽権現」と称していた
   【公式HP】 金桜神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】秋葉社・道祖神社

金峰山山頂の巨石に少彦名命を祀り、これを御影石と唱えてきたが、日本武尊が須佐之男尊と大己貴命を配祀し、御影石の南面に社殿を創建したのが山宮と伝。
雄略朝に山宮の金峯山よりこの地にうつし里宮としたと云う。
また、木曽の御岳、武蔵の御獄と並んで日本三御獄と言われ、元來は山岳信仰から発したものであろう。
当社を含めた別載の金桜神社は、何れもこの「金峯山」の東・南・西の麓へ展開した、いわゆる里宮的立場にある。
山頂を仰いだ古人が、その東西南北の登り口にも里宮として、社を奉祀したものであろう。
神宝として、昇仙峡より出た水晶の「火の玉・水の玉」がある。


由緒

第十代崇神天皇の御代(約2000年前)、各地に疾病が蔓延し悲惨をきわめた折、天皇は諸国に神を祀って悪疫退散と万民息災の祈願をなさいました。甲斐の国においては、当社より北方20Km、標高2595mの金峰山山頂に医薬、禁厭の守護神を鎮祭されました。御祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。その後、第十二代景行天皇の御代、日本武命東国巡行の際には、国土開発のため、須佐之男命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)をあわせ祀られました。
当地に里宮が開かれたのは、今からさかのぼる約1500余年前、第二十一代雄略天皇の御代のことです。第四十二代文武天皇の御代には、さらに大和の国の金峰山より魔障を除く仏、蔵王権現が祀られ、神仏あわせもつ日本三御岳、三大霊場として広く知られ、隆盛をきわめました。百余名の神主、僧侶が奉仕し、東国の名社と慕われ、信者は関東全域にとどまらず、遠く越後、佐渡、信濃、駿河の各地におよび、春秋二回の配札はことに賑いを見せました。領主、武将の信仰もあつく、寄進された室町、鎌倉期よりの社殿をはじめとする幾多の宝物は、時代の文化の粋を集めて壮観でした。
信仰の道、崇拝者の参道「昇仙峡」は、渓谷美日本一の景勝です。神宝はこの地で発掘され磨き出された水晶の「火の玉、水の玉」。境内の櫻は、古くから民謡に唄われている金のなる木の「金櫻」で、厄除け、金運を授けるとされる「水晶護符」とともに尊ばれています。 明治の御代を迎え、当社は、神仏分離によって神社として独立、大正5年には県社に昇格。広範な社有林と昇仙峡の清流にかこまれた神域は、幾世隔てた今日も変わらず清新であり、全国から集る人々の信仰の地となっています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




金桜神社

日本三御嶽 三大霊場 御嶽山金桜神社由緒
御祭神 少名彦命 大己貴命 素佐之男命
相殿 日本武命 櫛稲田媛命
第10代崇神天皇の御代(約2000年前)、各地に疾病蔓延し、天皇深く憂慮され諸国に神祇を祀って悪疫退散万民息災を祈願せしめらる、この時甲斐国では金峰山(北方約30Km)山頂に少彦名命を祀られたのが当社の淵源である。
その後第12代景行天皇の御代日本武命が東国巡行の際詣でられて大己貴命と須佐之男命を合祀され後に之を奥宮とし現在の地に里宮として金桜神社を鎮座された。
更に奈良朝第42代文武天皇2年(約1300年前)大和国金峰山より蔵王権現を勧請し、神仏両道となり別当以下神官僧侶百余名が常時奉仕し頗る盛大を極める。
以金為神 以桜為□ 金桜社社名の起源となる。
東国の名社として関東全域を始め越後佐渡信濃駿河に迄其の御神徳は及び各国の領主、武将の崇敬も篤く、寄進された社殿は実に壮観を極め鎌倉時代の建築物は国の重要文化財に指定され、左甚五郎作の昇り龍降り龍の彫刻類は稀にみる貴重な文化財であった。
古くから日本水晶の発祥の地として火の玉水の玉のご神宝と金の成る木と言われる神木鬱金の桜は主運守の水晶のお守りと併せ特に有名である。
日本渓谷美第一位の昇仙峡の景観と共に名実共に関東の大社であった境内は千古の老杉・巨木・枝を交え社有林三千町歩、秀峰奇岩屹立し、全山樹木に覆われて、真に仙境の感があった。
昭和30年12月18火払暁突如13棟に及ぶ社殿灰燼に帰す。
ご神体・社宝等は無事であったが昭和34年再建されて現代の社殿となる。
神使は白狗と狼 祭神の道案内、交通安全守護。
虫切りの鈴 日本三鈴の一つ。水晶守・生涯守として金運と厄除け。
日本三御嶽の内花の御嶽とも云われる。

社頭掲示板



金桜神社

御嶽(岳)とは神々の在す所 霊場なり。
雄略天皇10年歳次丙午本宮より此地に遷祀里宮と称す。
日本武尊東征の折、此の地に至り国家鎮護の霊地也と、首鎧を納め給う因なり。正殿、幣殿、拝殿、庁屋と在り。武田太郎信義造営の中宮、正殿、拝殿、浅野弾正少弼建立の東宮、正殿あり(以上国宝)神楽殿、神供所、参篭所あり、本社東に金桜神木と称する老大樹あり。
いにしへの 吉野をうつすや 御岳やま
 金の花も さこそさくらめ 隆弁僧正 泰納
此の残せし老杉の根の南に鐘楼あり、武田氏領国の時より獄訟決し難き時公裁ありて此の鍾を撞かしめ罰を神慮に任す。故に神慮鐘起請の鐘と言われり。又此の鍾を鳴らすと必ず疾風暴雨すと云われ5月中旬迄は撞く事を禁じられたと云う。昭和三十年十二月此の荘厳華麗を極めた十三棟の建物灰燼と化し七百有余年の歴史を伝えた文化財は瞬時にして烏有に帰す。此の古い歴史を物語るは、武田家ゆかりの社宝、文化財の神楽と七本杉、又、広大な社有林と此所に残す樹齢千五百年の杉の根に残さるゝのみとなった。
里宮遷座壱千五百年を記念して水晶護符の全国頒布と共に之を建てる。
昭和63年5月吉日
総社 御嶽山 金櫻神社

社頭掲示板



山梨県指定有形文化財

能面・住吉蒔絵手箱・家紋散蒔絵手箱
筏散蒔絵鼓胴・武具散蒔絵鼓胴
指定年月 昭和42年8月7日(県指定)
所在地 .甲府市御岳町2347
所有者 金桜神社
能面は8面あり。このうち二面に「ヰセキ」一面に「出目重満」の銘がある。この井関家及び出目家は、ともに世襲面打ち家として能面史上重要家柄である。面の種類は朱銘のあるものに平太・小面・中将などがあり、素材は椿材で翁のみ桐材である。金桜神社における神事能の由緒は明らかではないが、甲斐国の総社でもあった大社であり祭日に神楽が演じられているので、この伝統から神楽と同時に神事能がかっては舞われていたものと推定される。
住吉蒔絵手箱は、住吉神社が島に浮かび松樹と太鼓橋が配されたデザインである。黒漆地に金の平蒔の文様効果が密に現れた豪華な品であり、武田信玄の母大井夫人の奉納されたものである。家紋散蒔絵手箱は、各種の家紋がデザインとして散されている。両者とも室町時代末期の特徴を示している逸品である。
御嶽金桜神社の宝物として神宝帳に「ヰセキ作能面武田勝頼奉納、弥左□□作大太鼓武田勝頼奉納、阿古作小鼓胴仁科五郎奉納」とある。武具散□□□胴が勝頼奉納のもので胴内に「弥左衛門尉(花押)」と漆銘があり□□蒔絵鼓胴が仁科五郎奉納のもので胴内に「阿古」と朱銘があるが奉納者の記載はない。黒漆地に金の平蒔と梨地絵を巧みに配分し文様効果をあげており、品位・作柄共に優秀な工芸品である。
昭和62年3月15日
山梨県教育委員会
甲府市数育委員会

社頭掲示板



甲府市指定 無形民俗文化財

金桜神社大々神楽付面と衣装
指定年月日 昭和57年3月9日
所有地 甲府市御岳町2347
保持者 桐山政一他
古くから、山岳信仰の地点として栄えた金桜神社に伝承されているこの神楽は、室町時代以来の歴史を刻むという。
本来は伊勢神楽に初源を持つと伝えられるが、現在まで伝承されている26座のうちには、修験道の所作が随所に認められ、金峰山麓に育った特異性を持つ芸能である。
舞に使用される28の面と47の衣装とを含め、市の文化財に指定されている。
昭和63年3月
甲府市教育委員会

社頭掲示板



金桜神社

昇・降竜記
当金桜神社には初代左甚五郎作と伝えられる昇・降竜が奉納されており、鎌倉時代の社殿と共に全国に其の名を知られてまいりました。
昭和30年の大火により全て之を焼失して以来各方面から之を惜しみ再現復活が要望されてまいりました。
昭和55年ご神縁により東京銀座祝橋診療所吉河孝雄医博により日展会友堀友二氏に制作依頼され同58年8月27日奉納されました。ケヤキ一本柞りの全長1m70cmの此の竜は夫々水晶の玉を抱いております。水晶と当神社のお守りは深い関係をもっており、
鬼をさる玉なれは天魔疫癘の恐れなし
如意宝珠なれば宝に於いてあきみてり
国を守る玉なれば息災にして天が下治む
竜王の玉なれば水火に於いて自在なり
天地の鏡なれば萬の事曇りなし
神符なれば不死不老悪衆不人病いなし
の玉衣姫命の神託通り強い霊力をもつものと信仰されたものです。
昇仙峡のもつ神秘的な風景と日本三大霊場の此の御岳の里の古い歴史の中に数多い伝説の起源ともなった昇・降龍の由来は此の新しい龍の再現によって高いご神徳を遍く蒙られるものと信ずるものでございます。
神木「鬱金の桜」
創祀二千年と云う古い歴史をもつ当神社が里宮として約1500年前に此の御嶽の里に祀られてより神仏習合時代に入り、役の行者小角の 以金為神 以桜為霊 と云う託宣より「金の成る木の金桜」として崇められたと云う景行天皇の御代日本武尊命が植えられた桜をも謂う。
「うこん」とは上古の昔より皇のお召物の色とされこの染料となる植物より此の名がつけられたものと考えられる。
(大阪造幣廠地内に「御衣黄」と云われる桜が此の桜に酷似しているが恐らく此の由来に起因するものだろう。
現在のこの神木は六〜七代目とも云われ4月下旬から5月上旬黄金の大輪の花をつける。
此の季節この桜を拝み水晶の守りをうけると一生涯金運に恵まれれ厄難解除のご神徳をうけられるものと全国各地からの参拝者で賑わっております。
昭和58年11月8日
金桜神社社務所

社頭掲示板



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