金桜神社
かなざくらじんじゃ


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【金桜神社】

名勝昇仙峡の北方2.5Kmに欝蒼とそびえ立つ杉木立の中を高い石段を登ると朱塗の金櫻神社が鎮座する。急に清々しい気持に打たれる。
式内社で元県社である。社伝によると第10代崇神天皇の御代、全国に疫病が流行したため、悪疫退散、万民息災を祈願された時甲斐国では金峰山頂に少彦名命を鎮祭され、その後第12代景行天皇の時、日本武命が東国巡行の折山頂に須佐之男命と大己貴命を合祠して国土平安を祈願された。次いで第21代雄略天皇の御代、金峰山より今の地に遷され里宮としての金櫻神社が創立された。更に第42代文武天皇の2年(約1270年前)大和国吉野山金峰山より蔵王権現を合祀して神仏両道の神社となり、日本三御嶽三大霊場としてその信仰は関東一円の他遠く信越にまで及び、別当の外神職僧侶百余名が奉仕して社運は隆盛をきはめた。また、武将の信仰も厚く広大な山林を神領として認められ、社殿の造営や数々の奉納品がこのことを語ってゐる。このやうに隆盛だった当社も明治維新の神仏分離により信仰も薄らぎ社家も分散し往時の姿は次第に消え、特に昭和30年12月18日失火により随神門神楽殿、本殿、拝殿、中宮、東宮等合せて十三棟の古い社殿を一夜にして焼失したことは、返す返すも遺憾なことであった。古い本殿は鎌倉時代の入母屋造であり、中宮は同時代の三間社流造、東宮は方三間単層入母屋造の、何れも荘麗な建物であった。特に中宮には見事な蟇股の牡丹の唐草があり、また本殿には左甚五郎の作と伝へられた昇竜降竜が有名だったがこれらもすべて焼失した。併し幸にも焼失を免れた社宝の神楽装束、能面八面、鼓胴三点、蒔絵手箱などは大切に保存されてゐる。能面は武田勝頼よりの奉納、鼓胴のうち大胴は勝頼より、小胴は仁科五郎盛信の奉納と記されてをり、当時の代表的作品で往時の盛儀が偲ばれる。このやうに武将の信仰の厚かった所以は武田家にとって御岳が「北の固め」として重要視されてゐたことも見逃せないものと思ふ。
社記に「以金為神以櫻為霊」といふ言葉があるが、この言葉こそ当神社の本質をよく表現してをり、「金櫻」の社号もここから出たものであらう。甲斐国志によると一の鳥居附近を「櫻大門」といひ、二十町ばかりに古樹数百株が道をはさんで咲き誇り、吉野の櫻を御岳に移したの観があった模様である。故に花の御嶽と云はれた。また、甲州水晶も社有地がその発祥の地であり、甲州水晶の研磨技術も御岳の祠職が京都から習得してこれを広めたもので、今日の水晶の発展の上から御岳は忘れることが出来ない。現在社宝として「火の玉、水の玉」の水晶が社殿にまつられてをり、当社の「水晶護符」もここに起因するものである。
広大な山林のお陰で昭和35年には今の新社殿が竣工し、昨年11月には本殿の昇竜降竜も東京都の吉河孝雄博士の特別寄進により製作奉納された。また永い伝統をもつ御岳大神楽も先年甲府市の指定を受け、現在後継者の養成が計られてをり、往時の夢が一つ一つ着実に実現してゐる感がある。

山梨県神社庁



御嶽山 昇仙峡 金桜神社由緒略記

祭 神 少彦名命・須佐之男尊・大巳貴命
例祭日 4月21日 22日
金桜~社の縁起は遠く崇神天皇の御代(約二千年前)に遡ります。当時各地に疫病が蔓延し悲惨を極めましたので、天皇はこれを深く憂慮せられ、諸国に~祗を祀り、悪疫退散萬民息災の祈願をするよう命ぜられました。この時甲斐の国では金峯山の頂に少彦名命を祀られましたのがこの神社の起こりでありまして、延喜式の神名帳にも「甲斐の国山梨郡 金桜神社」と載っているのであります。降って景行天皇の四十年、日本武尊が御東征の砌金峯山の上のこの社に詣でられ、須佐之男尊・大巳貴命の二神を合祀されましたので、御祭神は三柱となります。
その後、天武天皇の二年に至り、大和国吉野郡金峯山の蔵王権現を合祀して、神仏兩部の祭祀を執り行うこととなりました。
当時は別当以下百余名の神主僧侶が奉仕し、頗る盛大を極め、御社運は漸次隆盛に赴き東国の名社として遠近の崇敬を集め、その信仰は甲斐国はもとより、関東全域・越後・佐渡・信濃・駿河の各地に及び春秋二回の配札が行われていました。従って領主や武将の崇敬も厚く、それ等の人々によって寄進されました社殿は実に壮観を極め鎌倉時代の建築で重要文化財に指定されていた中宮及東宮を始め、武田兩時代の文化の粋を集めた建造物は稀に見る見事なものでありました。
明治の御代に至り、神仏分離が行われ、神社は国家の宗祀として尊宗せらるることとなり、最初ク社に列せられましたが大正五年には県社に昇格せられ、山梨県下の大社として広く全国に知られて参りました。
大東亜戦争の終結により神社制度にも一大変革が行われ、昭和21年神社は国家の保護管理を離れまして、宗教法人として取り扱われることとなりましたので、当神社も本庁に属する宗教法人として最出発致しました。
以上の如く、当神社の奉仕経営上には幾多の変遷が行われましたが、巨大なる老杉に囲まれた壮麗豪華なる御社殿は昔ながらの偉容を保ち、崇高なる御神徳は広く世の人々に光被し、日本随一を誇る渓谷美御嶽昇仙峡を探ねる人々の増加と相俟ちまして、参拝者の数は年と共に倍加しつつありました。
御社殿炎上
昭和30年12月18日払曉、神札授与所より突如として出火、月余に亘る旱天のため猛火はその勢いを恣にし、消化機能の不足と用水不便の爲如何とも方法もなく、随神門、舊宝物館、神楽殿、神楽控室と次々に延焼し、遂に拝殿、本殿及び中宮、東宮と燃え移りこれを炎上、更に三攝社、大皷堂に燃え拡がり、さしも壮大に誇った十三棟の建物が悉く灰燼と化し、七百余年の歴史を伝えた文化財は一瞬にして烏有に帰したのであります。
御神体は恙なく社務所仮御座所に奉遷し、社宝並に神楽装束、面類を始め什器一切は欠くることなく搬出されましたことは、社務所。休憩所をまぬかれたのと共にせめてもの幸いでした。
思い出
全てを焼き盡した焼跡に佇んで、周囲を顧みれば萬感胸に迫って落つる涙を禁じ得ず、在りし日の俤は彷彿として眼底に蘇り、「思い出」はつくる処ありません。
茲に在りし日の御社殿の御写眞と共に火災当時撮影した実写を収めて、粗末ながら写眞帳を作りました。往時を偲び、炎上の模様を排し、胸も張裂くる思いでありますが当時の偲ぶよすがとして氏子崇敬者の皆様に御覧戴くことと致しました。
昭和31年夏日
甲府市御嶽町
金桜~社 宮司 藤岡好春

公式HP



金櫻神社

金櫻は加奈佐久良と訓べし〇祭神在所等詳ならず
甲斐名勝志云、歌田村橋立明神、祭神伊弉諾尊、伊弉册尊也、相傳延喜式所載金櫻神社也、
此辺に金櫻田と云地名あり、此地往昔の神社の跡也、御供田、別当免田、並木、大神原など云田地の字あり、又此東の方に小祠あり、天文の頃今の社地に遷し祀ると云伝ふ、」又云、巨摩郡御嶽権現、祭神三座少彦名命、大己貴命、素戔鳴尊也、金性大明神は日本武尊也、(参考亦同)相傳延喜式所載金櫻神社是也、山林凡七里許、社家数多あり、後陽成院御宇文禄年中、淺野侯造営あり、又櫻大門とて古木の櫻数株あり、又云、山梨郡金峰山絶頂に祠あり、藏王権現を祭る、御嶽社の本宮也といふ、

神社覈録



郷社 金櫻神社

祭神 少彦名神 素戔鳴尊 大己貴尊
創立年代詳ならず、社記に拠るに当社は山宮里宮の両所あり、山宮は里宮を距る五里余北の方金峯山の頂にあり、始め少彦名を祀る、一説に景行天皇の御宇日本武尊此に至り給ひ、素戔鳴尊大己貴命を配祀せられしとも云ふ、延喜式所載の神社なり、雄略天皇10年字上村に分祀し、之を里宮と称す、「今御嶽山に在り藏王権現と云ふ、蓋大和國金峯ノ神を祀る、書紀通証に淺間神に同じ、木花咲耶姫なりと云ふは誤れり。是は金櫻の櫻字に因みて取違へたる者とす(神祇志料旧神祠記神明帳考証皆同じ)蔵王権現(御嶽村)御嶽山と称す、府北に在り、國主の祈願所にして、甲府勤番支配駿府御目附巡見の社なり、御朱印社領十石一斗、社地山林東西四里、南北七里、(神領山内に御嶽黒平の二村あり)日本武尊東夷征伐の時國家鎮護の霊地なりとして、首鎧を納めたまひき、因て神とし祭る、即地主神なり、武田義信逸見清光、淺野弾正諸氏の造修あり、殊に淺野氏の時は国中奉加仰付らると云ふ、社殿の結構甚だ壮麗なり、第二の華表、杉大門、此処今の神領山の南界なり、勝場あり、武田氏の制札を掲げたり、祭祀は年中七十五度、別に3月11日11月11日には大祭ありて、神樂を奏す、又11月26日は星合とて、来年の豊凶水旱を占ひ、遍く州中へ伝へ宜すと云ふ、又本社附近の景勝を挙くれば、金峯山は即ち御嶽祠の本宮なり、里宮の社前の華表の東を廻り、瀧尾坂根子坂を歴て、黒平村に至る霊泉あり、天狗岩の下より湧く、其北の鳥居嶺に渓流あり、其本源に千丈瀧あり、艮位に向ひ七嶺に麟れば観國岩あり、是より唐松嶺を経て水晶嶺に至り、御室川を渉り山宮へ登る、此より上は総て奇岩怪石寄り畳りて、山を為し、一々名状し難し又其間より小松生ひ出たるが風に揉れ、雪に圧されて、直上り得ず石を絡ひて蔓延屈曲せるなど、筆も及ぱぬ絶景なり。(甲斐叢記)国志山宮の条には「金峰山の頂上に在り、蔵王権現と称す、社記云所祀少彦名神、景行天皇の御宇日本武尊此に至り素戔鳴尊、大己貴命を併せ祭り給ふ、宣化天皇の3年に、安閑天皇を併せ祀り、欽明天皇の元年3月始めて祭祀を行ふ、」又社記に「以金為神以櫻為霊とあり」など云へり、里山両宮に蔵する古器文書にして、甲斐國寺社由緒書甲斐国志、甲斐叢記等に記載せるもの左の知し、
一、慶安2年8月17日の朱印状以来代々朱印状都合六通、一、天文7年正月23日武田氏の禁制、天正10年4月織田氏禁制、文禄4年12月浅野左京大夫長継黒印状、火ノ玉、是は開闢以來の伝宝、水ノ玉、同土、掴濱石、是は仁壽元年甲斐守小野朝臣貞村奉納なり、但し水なくして用る候也、義経陣扇、蝉の羽織と云、駒の角、龍の子、天狗の枕、弘怯大師真翰、紺紙金泥法華経一部、日蓮上人真翰同上、天下一イセキ面四個、是は武田勝頼奉納、同弥左衛門大鼓胴一個同上、阿古小鼓用二個、是は仁科五郎殿奉納、兼房の短刀久世勝之助奉納、当社旧式神職百軒余有之内、三派に上司相立、萬端申合、右年寄其儀は乍恐東照宮様御入国の節三千石余の知行被為下置云々、(甲斐国寺社由緒抄甲斐国志)とあり、其の大社たりし事瞭々たり、而して延喜式内社と云ふに就ては異説亦多しと雖も、尚ほ当社を以て擬する者多きに依り之に從ふべし、
社殿は本殿、拝殿、神楽殿、額殿、調供所、社務所、参籠所、大鼓櫓、神輿藏、宝蔵、随神門、神門等を有し、壮麗、今猶縣下に冠たり、境内は4313坪(官有地第一種)にして、社域及び附近の風光は前に引ける叢記の丈に見えたるか如く、天下の絶奇此に鐙れりと謂つべきなり、明治の初年郷社に列す。

明治神社誌料






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