砂丘の砂地の一部が芝生となっていてそこに礎石が点在している。かってこの地を「権現森」と称していたが森の痕跡はない。 |
式内社・小濱神社(黒津船大権現)社趾 小濱神社は、その勧請年は不詳であるが、朝廷により養老2年(718年)に小濱の磯崎(現かほく市大崎付近)から権現森の地に再営転遷され、魚取部数十人が置かれたとの社伝を有する式内社である。その祭神の大巳貴命(おおなむちのみこと)が出雲国日隅宮大神の分身であることから小濱神社はかつて日角宮とも称されていた。 貞観13年(872年)12月、渤海国の使節楊成規らがこの小濱神社の地に来着しそれを契機に小濱神社は朝廷から奉幣を賜わり「黒津船大権現」とも称されることとなった。朝廷から賜った「黒津船大権現」の「黒津」は古代朝鮮語では「コクル」と発音され、「黒津船」とは「コクル船」を意味するものであった。古代朝鮮にあった高句麗の遺臣が建国した渤海国の故地は、現在の中国黒竜江省付近であり、この省名も「コクル=高句麗(こうくり)」に因むものである。このことから小濱神社が渤海国使の来着に際し、その功により朝廷から賜った「黒津船大権現」の社名は「高句麗船大権現」との意味を持つものと考えられる。 その後、小濱神社は戦国期に前田利家の「末森城の合戦」にも大きな功を遂げ、明治の廃藩時に至るまで歴代加賀藩主の篤い崇敬を受け続けた。 この地の小濱神社の社趾は、出土礎石の配置状況から権現森の中で数度の転遷があったもののうち正徳4年(1714年)に加賀藩の五代藩主前田綱紀が修築した建物跡であり、享和3年(1803年)の火災に道うまで拝殿として用いられていたところである。因みに権現森の地名は「黒津船権現の鎮座する森」に由来するものである。 小濱神社は、古代から近世に至る各時代において内灘の歴史に中心的な役割を果たし、この地の歴史に鮮やかな光彩を放ち続けていたのである。 内灘町教育委員会 社頭掲示板 |