小浜神社
おばまじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】小浜神社 加賀国 加賀郡鎮座
          (旧地)小浜神社(旧地)
          (旧地黒船神社)黒船神社
          (旧地榊原神社)榊原神社

   【現社名】小浜神社
   【住所】石川県河北郡内灘町大根布3丁目157
       北緯36度39分8秒、東経136度38分58秒
   【祭神】大己貴神 事代主神 少彦名神
   【例祭】2月20日
   【社格】旧県社 加賀国二宮
   【由緒】神功皇后の三韓征伐にあたつて小浜の磯崎に大神を祀る
       養老2年6月18日小浜の松林中に遷座
       貞観14年(872)6月官幣
       永徳2年(1382)神階正三位
       長享年間(1487−89)一向一揆で神主は富樫氏に従つて戦没
       天正8年(1580)閏3月一向宗門徒の軍が社頭に火を放つ
       天正11年(1583)4月羽柴秀吉が加賀國に進攻した時禁制
       天正14年(1586)正月22日利家神社再興のため寄進
       近世に入つてからは、加賀藩の崇敬社、藩主前田家の析願所
       慶長9年(1604)利長が病み平癒を祈祷
       寛永15年(1638)12月11日寄進
       延享元年(1744)吉徳の病気に際して祈祷
       寛政11年(1799)大地震で被害
       天保3年(1832)五郎島に移転造営
       明治5年11月郷社
       明治13年3月県社
       明治22年8月2日現在地に遷座

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初北方の小浜の磯崎に鎮座
        養老2年6月18日小浜の松林中に遷座(黒津船)
        天保3年(1832)五郎島に移転造営
        明治22年8月2日現在地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「黒津船大明神」「黒津船権現」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造銅葺
       拝殿・幣殿

   【境内社】磯崎神社

神功皇后の三韓征伐にあたつて小浜の磯崎に大神を祀り、夷賊の来冦を防ぎ国家鎮護の神と仰いで日隅宮と尊称した。
往古、対外関係あるいは東北経管にあたり、本社の神威が仰がれた。
社地は3度変遷した。
古くは北方の小浜の磯崎(河北郡の宇ノ無町の内日角(うちひすみ)・大崎が関係地だという伝承がある)に鎭座した。養老2年6月18日南方30丁余の小浜の松林中へ遷座、これが黒津船の地である。その後海浜の浸蝕による社地の崩壊等のため天保3年(1832)に石川郡五郎島村勝山(現在金沢市五郎島町)に移転した。明治になつてから、五郎島は氏子地より遠く、維持経営にも支障があるところから同22年に五郎島から現在地に遷座した。


由緒

小濱神社記念碑
小濱神社由緒(新石碑)
当神社は、延喜式内社にして加賀国二之宮加賀郷総鎮守といわれ、国家鎮護の神なり、勧請年月不詳なりといえども、元正天皇の養老2年朝廷より小濱磯崎より三十町余南小濱の松林中(黒津船地内)に転遷、神戸魚取部、数十人置かる。
朝廷よりの崇敬厚く、度々勅使参向され、官幣、神料田地、神宝等を賜う、永徳2年神階正三位に昇格、又、天正年間に豊臣秀吉が柴田勝家を攻める時、当社に戦勝祈願に立寄り、兵を宿泊させたと記録されている。
又、藩主前田利家を始め、前田家累代の崇敬厚く、廃藩に到るまで、社殿造営、神具調進等すべて前田家よりなされ、毎年春秋両度、修覆するを慣例とされる。
故に社紋は、左三つ巴なるも、前田家の家紋剣梅鉢がつけられている。
天保3年、黒津船より石川郡五郎島へ、移転、明治6年8月、石川県より氏子神社三十八社を小濱神社附属社に取りきめらる。
明治13年、県社に列せられ、明治39年、神饌幣帛供進神社に指定される。
明治22年、五郎島より現在地大根布へ移転再建し、それより数えて、今年平成2年は御遷座百周年に当るを以って、三十八社の氏子等始め、崇敬者の奉賛により、百周年記念事業として、御本殿の修復、幣殿、拝殿の改築、直会殿の新築等を行い、御遷座百周年大祭を賑々しく斎行された。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



小浜神社

祭神 大己貴神 少彦名神 事代主神
由緒
小浜神社は延喜式内の神社にして加賀国二の宮小浜郷加賀郡の総鎮守なるが創立勧請年月詳ならずと雖も、当地  近く夷敵襲来から守るため朝廷より神功皇后三韓征伐の■祈願されたる出雲日隅宮の大神の御分身同体の神を頂き当地海岸小浜磯崎に社設を建て日角宮と云ひ国■鎮護の神とした。後元正天皇の養老2年6月18日当社を小浜磯崎(現大崎■)より30余町南方小浜の松林へ遷し社殿再建せりこの地現     社地なり亦朝廷より神戸(現内日角に)魚取■(現外日角に)数一人置かる
斉衡年中神託に因り少彦名神、事代主神を祀り三神併せ小浜神社の御祭神となる
永徳元年2月当神社遂に正三位に進授せらる
明徳3年後小松天皇より奉幣且御親翰を■ふ
天正11年4月豊臣秀吉柴田勝家を攻めんと兵を当地に進め一夜当社に宿し禁制の判物を附与す判物今に伝来す
前田家歴代当社の信仰厚く天正14年正月22日利家粟ヶ崎村に田二町歩寄進又社殿 神具 禁制札 下馬等悉く新調建立し爾来春秋両度神具等の修復を行ふ事とした 又攝末社再興の為め■米百俵寄進なる これによって小浜神社境内より各村々に攝末社を移築し 各村の氏神として祀りたる
各村の神社の移設年月当社由緒■詳なり
神領三十八村なり
天正14年6月18日社殿等落成正遷座慶賀祭に神前相撲奉納さる爾来6月18日に加越能三州力士寄合相撲を行ふを例とす
桃園天皇の宝?12年9月27日勅命を奉し長橋局当社に奉幣料金千匹を持って参詣す其の■今に伝来す
寛政11年5月26日天地震■り社殿破壊神主宅破壊炎上焼失文政11年社地南方砂山遂に崩壊 西方海岸は風波の為遂に崩落するを持って作事奉行■衆  上石川 五郎島勝山に移転社殿造営す
天保3年6月に遷座慶賀祭盛天を極め 前田■■参詣 祭典警固の足軽35人を三日間出勢せり
明治6年8月石川県より■子■神社を当小浜神社の■■神社に取極めらる
明治13年3月31日県社に列す
明治22年8月2日五郎島より内灘村大根布に移転再建さる 現在の社殿即ち是なり
昭和20年8月大東亜戦争終戦後国家管理を離れ神社本庁に属す本庁幣拱進社となる

社頭掲示板



小浜神社

◎御祭神 大己貴神・事代主神・少彦名神
◎境内神社 磯崎神社 ご祭神 天照大御神
由緒
当神社は延喜式内社にして加賀の国三ノ宮加賀郷総鎮守といわれ国家鎮護の神なり、勧請年月不詳なりといえども元正天皇の養老2年(718)小濱磯崎より30余町南、小濱の松林の中(墨津船地内)に転遷、神戸魚部薮十人置かれる。朝廷よりの崇敬厚く、度々勅使参向され官幣神料田地宝玉等を賜う。
永徳2年神階正三位の昇格、又、元正年間に豊臣秀吉が柴田勝家を攻める時、当社に戦勝祈願に立ち寄り、兵を宿泊させたと記残されている。又、藩主前田利家を始め前田家累代の崇敬厚く廃藩に到るまで社殿造営、神具調進等すべて前田家よりなされ毎年の春秋両度、修覆することが慣例とされる。
故に社紋は・左三つ巴と前田家の家紋剣梅鉢がつけられている。
天保3年(1832)の黒津船より石川郡五郎島へ移転し明治22年(1889)に現在の内灘町大根布の里に移築した。明治6年8月、石川県より氏子神社38社を小濱神社付属社に取りきめられる。明治13年、県社に列せられ明治39年神饌幣帛供進神社に指定される。
大根布の里に移築して、乎成2年に御遷座百周年に当るを以って、38社の氏子等を始め崇敬者の奉賛金により、百周年記念事業として御本殿の修復・幣殿の改築・直会殿の新築等を行い御遷座百周年大祭を賑々しく斎行された。現在の小濱神社の御本殿においては、内灘町指定の重要文化財に指定されている。

由緒書



小浜神社

当神社は、延喜式内社にして加賀国二之宮加賀郷総鎮守といわれ、国家鎮護の神なり、勧請年月不詳なりといえども、元正天皇の養老2年朝廷より小濱磯崎より30町余南小濱の松林中(黒津船地内)に転遷、神戸魚取部、数十人置かる。朝廷よりの崇敬厚く、度々勅使参向され、官幣、神料田地、神宝等を賜う、永徳2年神階正三位に昇格、又、天正年間に豊臣秀吉が柴田勝家を攻める時、当社に戦勝祈願に立寄り、兵を宿泊させたと記録されている。又、藩主前田利家を始め、前田家累代の崇敬厚く、廃藩に到るまで、社殿造営、神具調進等すべて前田家よりなされ、毎年春秋両度、修覆するを慣例とされる。故に社紋は、左三つ巴なるも、前田家の家紋剣梅鉢がつけられている。天保3年、黒津船より石川郡五郎島へ、移転、明治6年8月、石川県より氏子神社38社を小濱神社附属社に取りきめらる。明治13年、県社に列せられ、明治39年、神饌幣帛供進神社に指定される。明治22年、五郎島より現在地大根布へ移転再建し、それより数えて、平成2年は御遷座100周年に当るを以って、38社の氏子等始め、崇敬者の奉賛により、100周年記念事業として、御本殿の修復、幣殿、拝殿の改築、直会殿の新築等を行い、御遷座100周年大祭を賑々しく斎行された。

石川県神社庁



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