兎橋神社
うはしじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】兎橋神社 加賀国 能美郡鎮座
          (旧地小野村)兎橋神社【旧地小野村】
          (旧地宮の島)宮の島】

   【現社名】兎橋神社
   【住所】石川県小松市浜田町イ-233
       北緯36度24分23秒、東経136度26分45秒
   【祭神】菟橋大神 建御名方命 八坂刀売命
   【例祭】5月12-15日 春季例大祭 8月26-27日 秋季例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】慶雲元年(704)創立
       嘉祥年間大政官符に正六位上
       治暦元年(1065)小松町(小松御城内)へ遷座
       文明長享の頃一向一揆で社領・社宝亡失
       寛永17年(1640)城中菟橋門内へ転地
       慶安4年(1651)濱田庄の神明宮ヘ遷座(現在地)
       明治8年7月菟橋神社から諏訪神社に改称
       明治14年7月郷社
       明治15年8月再び菟橋神社と旧称に改称
       明治29年9月23日県社
       明治39年12月29日神饌幣帛料供進神社指定


   【関係氏族】
   【鎮座地】往古は得橋郷の小野村に鎭座
        治暦元年(1065)小松町(小松御城内)へ遷座
        寛永17年(1640)城中菟橋門内へ転地
        慶安4年(1651)濱田庄の神明宮ヘ遷座(現在地)

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「小松諏訪社」と称していた
   【公式HP】 兎橋神社
   【社殿】本殿大社造
       幣殿・拝殿・神饌所・社務所・神輿舎・手水舎

   【境内社】神明宮・神明宮・稲荷社・少彦名社・粟島社・荒御魂社

加賀国能美郡得橋(うはし)郷三十ケ村の総社として篤く崇敬されていた。莵橋(うはし)神社の名称もこの得橋(うはし)郷の名によるものであり、雨水期には洪水氾濫して高地所々に浮き上り恰も浮橋の如くなるにより「うはし」の郷名が生れたと古書に記載されている。


由緒

延喜式内社 莵橋神社(お諏訪さん)略記
御鎮座の由来
当神社の創立は遠く古代にさかのぼり社伝によれば人皇第42代文武天皇慶雲元年(697年)と伝えられ醍醐天皇延長5年(927年)には早くも延喜式神名帳に「加賀国能美郡八座並小莵橋神社」として登載されている古社である。
和名抄に言う加賀国能美郡得橋(うはし)郷三十ケ村の総社として当時の国王、守護職を初め上下一般の庶民から篤く崇敬されていた。莵橋(うはし)神社の名称もこの得橋(うはし)郷の名によるものであり、雨水期には洪水氾濫して高地所々に浮き上り恰も浮橋の如くなるにより「うはし」の郷名が生れたと古書に記載されている現在の梯川地域である。
鎮座地については古来から幾多の変遷があったと思われるが神社の社記や古文書或は前田家所蔵の加賀国神社縁起等によると初めは国府の所在地に近い能美郡得橋郷小野村に在り国司、守護職等の祈願所として例年国土開拓天下泰平の祈願を行っていた。
中世末に至って得橋郷上小松村に遷り更に徳川時代の初期中納言前田利常卿が小松城に居を移されるに際し小松城内の兎橋御門内に奉遷して小松、金沢両城の守護神として篤く崇敬の誠を捧げられ慶安4年に梯川の下流の中央に位置する浜田の庄の神明宮の社地を拡張し、ここを永代の神域と定められ新に社殿を造営し遷座したのが現在の莵橋神社の神域であり本殿は当時の建造物である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



菟橋神社

菟橋神社(お諏訪さん)略記
一、鎮座地  石川県小松市浜田町
一、旧社格  県社(明治29年列格)
一、御祭神  菟橋大神
       (或は建御名方命)
相殿諏訪大神
(建御名方命、八坂刀売命)
一、御鎮座の由来
当神社の創立は遠く古代にさかのぼり社伝によれば人皇第42代文武天皇慶雲元年(697年)と伝えられ醍醐天皇延長5年(927年)には早くも延喜式神名帳に「加賀国能美郡八座並小菟橋神社」として登載されている古社である。
和名抄に言う加賀国能美郡得橋郷三十ケ村の総社として当時の国主、守護職を初め上下一般の庶民から篤く崇敬されていた。菟橋神社の名称もこの得橋郷の名によるものであり、雨水期には洪水氾濫して高地所々に浮き上り恰も浮橋の如くなるにより「うはし」の郷名が生れたと古書に記載されている現在の梯川流域である。
鎮座地については古来から幾多の変遷があったと思われるが神社の社記や古文書或は前田家所蔵の加賀国神社縁起等によると初めは国府の所在地に近い能美郡得橋郷小野村に在り国司、守護職等の祈願所として例年国土開拓天下泰平の祈願を行っていた。
中世末に至って得橋郷上小松村に遷り更に徳川時代の初期中納言前田利常卿が小松城に居を移されるに際し小松城内の兎橋御門内に奉遷して小松、金沢両城の守護神として篤く崇敬の誠を捧げられ慶安4年に梯川の下流の中央に位置する浜田の庄の神明宮の社地を拡張し、ここを永代の神域と定められ新に社殿を造営し遷座したのが現荘の菟橋神社の神域であり本殿は当時の建造物である。
-、御祭神の御神徳
諏訪大神は諏訪大明神又は諏訪南宮法性大明神とも称し大国主命(出雲大社)の第二の御子神である建御名方命でその総本社は信濃国一之宮諏訪大社である。
当神社の社伝によれば大古悠遠の昔、大国主命が北陸地方経営に際して父神と共にこの加賀の地に到り先づ洪水を治め暴風を防ぎ凶暴を平らげ国土を開拓し農耕、機織、殖産の道を教え民衆の生業を助け給いやがてその業成るや自らの卸魂をこの地に留められ国魂の神として永く得橋郷の鎮護の神となられし後に信濃国諏訪の地に赴かれたという。
諏訪大神は、御父神大国主命(大国さま)の北陸経営にあたり御兄神(えびすさま)と共に力を協せられ国土を開拓し農耕殖産の道を教えられ陸路海路の交通安全を守護せられ殊に八方除けの守護神として霊験あらたかな大神である。
又祀神八坂刀売命と共に年々神奈月(十月)には父神の座す出雲国に赴かれ神議に参加して庶民の縁結びや商売繁昌、家内安全のために偉大なる御神徳をあらわされた為に全国津々浦々に御神威がひろがりその御分社の数も壱萬有余にのぼり殊に北陸地方には多く石川富山新潟の三県には壱千有余社をかぞえている。
朝廷及び武門武将の崇敬
当神社は平安朝時代既に延喜式内社として神名帳に登載され年々祈年の奉幣に預り又人皇第55代文徳天皇嘉祥年間の大政官符によると正六位上を下賜せられている。
中世以前は加賀国守護職富樫氏累代五百有余年に亘って国司の巡拝奉幣或は社殿等の造営が行われ天正4年(1576)小松城が築城され若林長門守、村上義明、丹羽長重を経て慶長5年前田利長公城主となり爾来前田家累代の居城となる元和元年(1615)城代前田源峯公は本社拝殿に御城内と記せる提灯を懸げ神幕を奉納し社頭に禁制の高札をかゝげて崇敬の誠をいたし更に後世本神社を崇敬されたことは前田藩社寺奉行所の古書に見る。
寛永16年前田利常公居城に当り本社を小松・金沢両城の鎮護の神と仰ぎ慶安4年(1651)には大工棟梁山上善右ヱ門に命じ現在地に社殿を造営し社領神宝等を寄進せられ又累代の神主家(上田氏田中氏)には御馬出に居屋敷を与え毎年春季大祭には神興の御城内渡御を仰いで御城大手前において小松・金沢両城並に加越能三州の泰平と民生繁栄の祈願神事を行うた。爾来この嘉例を城代相継いで明治維新に及んで今日に至る。
◎御旅祭(5月14・15・16日〕
当社の春季大祭で古来の伝統を受けついで、古式に則り行列を整え神輿が旧小松城大手前に渡御し神事を行った後、小松市内全氏子区域内を巡幸する。
神輿の奉昇は旧得橋郷並旧小野村上小松村の若者達によって奉仕されこの神輿の巡幸に当って氏子の各家庭では献燈し幔幕や御簾を張り家族は正装して拝するを例としている。
尚神賑に獅子舞、曳山芝居がありこの祭の特色とする。
獅子舞は各町内毎に子供連中により繰り出され鼓笛の奉奏にしたがって獅子頭をふりながら延々一キロ余の隊列を組み神輿巡幸の行列に続くのである。
曳山芝居は各町内の要所に高屋台を設け前面が舞台で、浄瑠璃にあわせて子供歌舞伎が行われる。役者はいずれも町内の十二・三歳の男女児で鎌倉三代記又は忠臣蔵などを演ずる。
当日境内では夜を徹して諏訪大鼓の神楽や其の他の芸能サーカス団の興行等で賑い、市内は勿論遠く県内外からの参拝者で全市内が埋まるのであり、小松お旅祭として北陸三大祭の一つにあげられている。
◎西瓜祭(8月26・27・28日〕
当神社の秋季例大祭である。
当日は県内外は勿論遠く京阪地方から商人が集り境内、市内沿道殆ど西瓜を売る露店で埋る(昭和初期まで)のでこれが祭の名称となったので当日の参拝者は十数萬人をかぞえる。
昔藩主前田公の下知によってこの日は領内の庶民すべてに家業を休ませてこの祭に参詣せしめたもので本来は水火のお祭で所謂五穀豊穣感謝の祭であったと伝えられる。この日境内では相撲盤持神事、諏訪神楽太鼓その他の芸能が行われる。ちなみにこの日信州諏訪大社においても盛大なる祭が行われている。
一、御祭禮
歳旦祭   (1月1日)
初午祭   (2月初午日)
祈年祭   (2月17日)
春季皇霊祭 (3月21日)
鎮火祭   (3月27日)
春季大祭  (5月14、15、16日)
      小松お旅祭
大祓祭   (6月30日)
琴平祭   (7月10日)
疫神祭   (7月15日)
城址祭   (8月1日)
秋季例大祭  (8月26、27、28日)
       (西瓜祭)
秋季皇霊祭  (9月24日)
神明宮祭   (10月16日)
琴平祭    (11月10日)
七五三詣祭  (11月15日)
新嘗祭    (11月23日)
大祓祭    (12月31日)
国家祝日祭
一、宝物
狛犬(伝藤原時代作)、前田源峯公社頭禁制札(慶安2年)前田利常公御鎧一領、宇治川先陣大絵馬額(元禄2年修理土佐光守筆)八嶋合戦絵馬額(土佐光起、同光乎補筆天保6年)神道裁許状(元禄5年上田兵庫頭正信)栄爵授与勅許状(明和4年上田越後守正祐 天皇御璽押印あり)其他舞楽面、刀剣類、古文書等数十有余点。
一、累代の社家
当神社の祠官は古記録によると上田氏、田中氏の二氏がありしも其後田中氏は廃絶し、上田氏のみ続いて今日に至っている。上田氏の遠祖は信濃国諏訪大社の祠官より出たと伝えられる。今同家に伝わる系図を見ると現宮司上田正浩が第19代に当るが中世からの系図によると33代であり又45代目ともいう。近世の系図によると歴代藤原朝臣を名乗り上田兵庫守正信は元禄5年京都神道管領ト部家より神道裁許状を受け上田越後守正祐には栄爵勅許状が下賜され爾来同家祠官は従五位下に叙せられ旧藩主前田家からは小松城下御馬出にその居屋敷を与えられ正三五九月には城中に参向して祈祷神符を献上することを例としていた。
一、境内の名木
本殿の背後に樹令数百年をかぞえる老松二本があり古来からこれを牛若松、弁慶松という。鎌倉時代源義経、弁慶一行が奥羽落ちをした時、安宅の関通過に際し、当社に武運長久の祈願を込められしよりこの名称が出たものと伝えられ、又古来から陸路海路の旅行者の指針とし且つ又心の依りどころとして親まれて来た松であり石川県の名木の一にあげられている。
一、諏訪太鼓
当神社に古来から伝承されている神事芸能の一にお諏訪大鼓がある。その打法は独特の古調を伝え神社の古さと当時の民衆の心を現在に伝えている。昭和37年国学院大学の高崎、西角井両博士一行の調査によると『諏訪太鼓は神楽としてその音曲形式は出雲型に属し虫送り太鼓とは関係なく、雨乞神事として神社に奉納されたものである。西瓜祭(秋季例大祭)には近郷近在より人々が集りこの大鼓を打ち鳴した。現在当神社に有る太鼓は文化5年(1809)の作成で奥の細道で有名な芭蕉に随伴した曽良の随行日記中に『8月27日快晴、所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣』と記されている点からしても諏訪太鼓の溌生は古く400年の伝統を侍つものである』と述べられている。
神さびし 菟橋の宮の老松は
豊年見えて雪ぞつもれる  松本源祐
芭蕉、曽良菟橋神社参拝の折に(奥の細道)
しほらしき 名や小松ふく 萩すゝき 芭蕉
一、社会事業
菟橋神社結婚式殿諏訪会館は一般市民の利用福祉のために建設され只管市民奉仕の精神に則り御神徳の顕揚に努めるものである。 後日、精神道場の建設を逐行して古来伝統の日本民族精神の実現発揚に努めて国家社会福祉教化を目的として企画中である。

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