兎橋神社
うはしじんじゃ


戻るボタン





【由緒】

一、御創建
 莵橋神社の創建は古代にさかのぼり、慶雲元年(702年)とも、それ以前とも伝えられる。全国の有力神社が記載された『延喜式神名帳』(927年)に「加賀国能美郡八座 莵橋神社」として登載されていることから、古来より遍く崇敬の篤い神社であることが伺える。
一、加賀国の立国
 弘仁14年(823)、越前国より江沼郡と加賀郡が分離して加賀国ができた(類聚三大格、日本紀略)。立国と連動して江沼郡より能美郡が、加賀郡より石川郡が分離する。これによって加賀国は、加賀郡・石川郡・能美郡・江沼郡の四つの郡からなり、国府は能美郡莵橋郷(ウハシゴウ、莵の字は、兔、兔、菟とも書き、のちに得となる)に置かれた。その場所は、梯(かけはし)川の中流域右岸、現在の古府町、小野町などにまたがる標高15mの古府台地とその周辺部に存在したと推定される(小松市史 資料編4)。
 莵橋郷に加賀国の国府が置かれたということは、その当時この地域が加賀国の中心地としてふさわしい地域であったことを意味する。『和名抄』に、莵橋神社は加賀国能美郡莵橋郷三十ヶ村の総鎮守として当時の国主・守護職をはじめ、上下一般の庶民から国土開拓天下泰平を祈願され篤く崇敬されていたことが記載されていることから、加賀国の立国以来、国の中心に莵橋神社が鎮座してきたことが伺える。
一、朝廷及び武門武将の崇敬
 莵橋神社は平安時代既に延喜式内社として神名帳に登載され、年々祈念の奉幣に預かり、又第五十五代文徳天皇嘉祥年間の太政官符によると正六位上を下賜せられている。
 中世以前は加賀国守護職富樫氏累代五百有余年に亘って国司の巡拝奉幣或は社殿等の造営が行われ、天正4年(1567)に小松城が築城され若林長門守、村上義明、丹羽長重を経て、慶長五年前田利長公城主となり爾来前田家累代の居城となる。元和元年(1615)城代前田源峯公は本社拝殿に御城内と記せる提灯を懸げ神幕を奉納し、社頭に禁制の高札をかかげて崇敬の誠をいたし、更に後世本神社を崇敬されたことは前田藩社寺奉行所の古書に見る。
 寛永16年前田利常公居城に当たり、本社を小松・金沢両城の鎮護の神と仰ぎ、慶安4年(1651)には大工棟梁山上善右衛門に命じ現在地に社殿を造営し、社領神宝等を寄進せられ又累代の社家(上田氏田中氏)には御馬出に居屋敷を与え、毎年春季大祭には神輿の御城内渡御を仰いで御城大手前において金沢・小松両城並びに加越能三州の泰平と民生繁栄の祈願神事を行った。爾来この嘉例を城代相継いで明治維新に及んで今日に至る。
一、社名の由来
 社名及び祭神名の莵橋とは、この莵橋郷(莵は兔、兎、得ともかく)に由来し、当社は莵橋郷の総鎮守であった。郷内を流れる梯川は、雨水期にはよく氾濫し、高所が所々浮き上がり、恰も浮き橋のようになったことから「うはし」の郷名が生まれたと古書に伝えられる。
一、鎮座地の変遷
 鎮座地については古来より幾多の変遷があった。古文書及び前田家所蔵の加賀国神社縁起等によると、初めは能美郡得橋郷小野村にあり、郷内三十ヶ村の総社として当時の国主、守護職をはじめ一般庶民から篤く崇敬されていたといわれる。
 その後国衛の衰微、加賀守護職の更迭、相続く争乱に中世末に至ってここを離れ、得橋郷上小松村に遷り、小野村の旧社地にはわずかに小祠を建て「大橋の宮」と呼んだ。
 「南禅寺文書」によると鎌倉時代後期頃この一帯は南禅寺領であったことが察せられ、その後南北朝から室町時代にかけては一向一揆が盛んで、神社仏閣は荒廃したといわれている。
 一向一揆平定後、天正8年(1580)小松城主に村上義明が任ぜられ、18年間小松の治世に当たった。その間積極的に社寺の城下への移転、造営に当たった。記録はないが、本社が上小松村から城内に移されたのはこの頃と推察される。
 次の小松城主丹羽長重の二年半の後、慶長5年(1600)小松は前田家の領有となり、初代小松城主になったのが前田長種(源峯)である。その前田源峯の莵橋神社に対する禁制札が現存し、小松城内に境内地1993歩を所有していたことがわかっている。
 寛永17年(1640)、加賀三代藩主前田利常が、小松を養老地と定め隠居した時、城を造営し、町を整備した際、本社を城内兎御門内に移し、小松城と金沢城の守護神に定められ、加賀国の豊穣安寧祈祷を命ぜられた。
 その後慶安4年(1651)、神明宮があった浜田村の地に、前田家より永代の神域として遷され、これまでの社地千歩のところ二千歩増加し計三千歩を社地とし、本殿をはじめ諸殿を造営され、同時に神輿・神宝他数々の寄進を受けた。これが現在の社地で、本殿と神輿は、この時に寄進されたもので、文化財に指定されている。
一、御祭神の御神徳
 莵橋神社は、本社に莵橋大神、諏訪大神をお祀りし、境内社にも数々の御祭神をお祀りしている。
莵橋大神
 莵橋大神は産土神(氏神、鎮守神ともいう)である。元来は莵橋郷の鎮守の神として、郷内に住む人々は日々ご加護を戴いていた。時代は遷り、平安時代に加賀国の国府が置かれたり、江戸時代に前田家からの崇敬篤く小松城・金沢城両城の鎮護社と崇められるなど、その御神徳は広範囲に及び、広く加賀国の人々の守護神と崇められるようになった。
諏訪大神
 諏訪大神は大国主命(出雲大社)の第二の御子神である建御名方命(たけみなかたのみこと)とその妃神八坂刀賣命(やさかとめのみこと)で、その総本社は信濃国一之宮諏訪大社である。
 社伝によれば太古悠遠の昔、大国主命が北陸地方経営に際して父神と共にこの加賀の地に到り、先ず洪水を治め暴風を防ぎ凶暴を平らげ国土を開拓し農耕、機械、殖産の道を教え民衆の生業を助け給い、やがてその業成るや自らの御魂をこの地に留められ国魂の神として永く莵橋郷の鎮守の神となられし後に信濃国諏訪の地へ赴かれたという。
 よって、諏訪大神は、北陸経営にあたり国土開拓・農産業殖産の神、必勝必達勝負の神、陸路海路空路の交通安全・旅行安全、八方除け、災難除けの神、と崇められている。また、八坂刀賣命は縁結び、商売繁盛、家内安全の神と親しまれている。
また境内社の御祭神の御神徳は次の通り。
・巌之御魂神社(神明宮)…神明さん、農業神、太陽神
・金刀比羅神社…こんぴらさん、海の守護神、雨乞いの神、水の神
・稲荷神社…おいなりさん、田の神、五穀豊穣、商売繁盛
・少彦名神社…薬の神、病気平癒、安産の神
・粟嶋神社…あわしまさん、安産の神、婦人病
・天神地祇神霊社・荒御魂社…天神さん、災難除け、雷神
・須納谷白山社・杖白山社…しらやまさん、菊理媛神、伊耶那伎神、伊耶那美神
一、累代の社家
 当神社の祠官は古記録によると上田氏、田中氏の二氏がありしも田中氏は廃絶し上田氏のみ続いて今日に至っている。上田氏の遠祖は信濃国諏訪大社の祠官より出たと伝えたれる。同家に伝わる系図を見ると現宮司上田正浩が第19代に当たるが中世からの系図によると33代であり又45代目ともいう。近世の系図によると歴代藤原朝臣を名乗り、上田兵庫守正信は元禄五年京都神道管量卜部家より神道裁許状を受け、上田越後守正祐には栄爵勅許状が下賜され爾来同家祠官は従五位下に叙せられ、旧藩主前田家からは小松城下御馬出にその居屋敷を与えられ、正三五九月には城中に参向して祈祷神符を献上することを例としていた。
一、境内の名木
 本殿の背後に樹齢数百年をかぞえる老松二本があり古来からこれを牛若松、弁慶松という。鎌倉時代源義経、弁慶一行が奥羽落ちをした時、安宅の関通過に際し当社に武運長久の祈願を込められしよりこの名称が出たものと伝えられ、また古来より陸路海路の旅行者の指針とし且つ心の拠りどころとして親しまれてきた松であり石川県の名木の一つにあげられている。現在は牛若松のみ存ずる。
一、松尾芭蕉の参詣
 俳聖松尾芭蕉は、かの有名な『奥の細道』の道中で、当社を参詣している。元禄2年(1689)、随伴した河合曽良の随行日記に「七月二十七日快晴、所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣」との記載がある。「しほらしき 名や小松ふく 萩すすき」はそのときに詠まれた句で、莵橋神社境内にその句碑がある。
一、平安建都1200年記念・全国祇園祭山笠巡行に参加
 桓武天皇が都を京都に遷したのが七九四年。平成6年(1994)は平安建都1200年にあたる。これを記念して、京都・八坂神社の祇園祭にあわせて、全国祇園祭山笠巡行が行われ、全国各地区から由緒ある山笠・山車・曳山が巡行に参加した。
 北陸地区からは当社の「お旅まつり」が代表に選ばれ、中町の曳山子供歌舞伎が参加した。7月23日・24日、祇園祭の山鉾をはじめ、全国から選び抜かれた山車とともに、中町の曳山が華の都大路を巡行した。「お旅まつり」は絢爛たる曳山と同時に、その上で演じる子供歌舞伎も魅力の一つであるため、京都の四条通りの真ん中で、歌舞伎を演じる栄を得た。その年のお題目は「仮名手本忠臣蔵 七段目 一力茶屋の場」。四条花見小路の一力亭の前で演じるという粋な計らいもいただいた。四条通りを埋め尽くす大勢の参拝者から拍手喝采をあび、その模様は翌日の京都新聞の一面で写真付きで報じられた。
 これを機に、中町町内会より八坂神社に絵馬を奉納した。また莵橋神社境内にも記念碑が奉納されている。

公式HP



【由緒】

当神社の創立は遠く古代にさかのぼり社伝によれば人皇第42代文武天皇延長5年(697)と伝えられ醍醐天皇延長5年(927)には早くも延喜式神名帳に「加賀国能美郡八座並小莵橋神社」として登載されている古社である。和名抄に言う加賀国能美郡得橋(うはし)郷三十ケ村の総社として当時の国王、守護職を初め上下一般の庶民から篤く崇敬されていた。莵橋(うはし)神社の名称もこの得橋(うはし)郷の名によるものであり、雨水期には洪水氾濫して高地所々に浮き上り恰も浮橋の如くなるにより「うはし」の郷名が生れたと古書に記載されている現在の梯川地域である。鎮座地については古来から幾多の変遷があったと思われるが神社の社記や古文書或は前田家所蔵の加賀国神社縁起等によると初めは国府の所在地に近い能美郡得橋郷小野村に在り国司、守護職等の祈願所として例年国土開拓天下泰平の祈願を行っていた。中世末に至って得橋郷上小松村に遷り更に徳川時代の初期中納言前田利常卿が小松城に居を移されるに際し小松城内の兎橋御門内に奉遷して小松、金沢両城の守護神として篤く崇敬の誠を捧げられ慶安4年に梯川の下流の中央に位置する浜田の庄の神明宮の社地を拡張し、ここを永代の神域と定められ新に社殿を造営し遷座したのが現在の莵橋神社の神域であり本殿は当時の建造物である。

石川県神社庁



例大祭

春季例大祭・お旅まつり5月13日〜6月6日
菟橋神社の春まつりを「お旅まつり」という。北陸三大まつりの一つに数えられている。15日に御輿(みこし)の渡御(とぎょ)がある。
古いしきたりにのっとり行列を整え、旧小松城大手前で天下泰平を祈願し、その後小松市内の全氏子区域を巡幸(じゅんこう)する。
神様が市内を旅するところから、「お旅まつり1と呼ばれるようになったといわれている。なお、神輿は360年ほど前に前田利常公が本殿とともに寄贈したもので、小松市の文化財に指定されている。
奉納行事として、曳き山の上で子供が歌舞伎を演じる「曳山子供歌舞伎」が有名。近江長浜、武蔵秩父と並んで全国三大曳山子供歌舞伎とたたえられている。小松市内には曳き山が八基あり、江戸時代中期に作られ、たいへん絢欄たるつくりとなっている。
その八基の曳き山が勢揃いすることを「ひきぞろえ」という。小松市内の会場に八基がならび、子供歌舞伎が奉納される。夕方からライトアップされ、夜のとばりの中に浮かびあがる曳き山の姿はまさに圧巻である。
曳き山の運営方法が独特で、30代から40代の中堅どころが「五人衆」に選ばれ、中心となって曳山子供歌舞伎の運営にあたる,それぞれ各町で古くからのしきたりにそって行われ、その運営方法が無形文化財に指定されている。
近年、お旅まつりにあわせて全国子供歌舞伎フェスティバルが行われ、全国各地の子供歌舞伎を一度に見ることが出来るようになった、歌舞伎のまち小松として全国に名をとどろかせている。
祭礼期間中、蒐橋神社参道には露店が300軒以上ならび、全国からの参拝者でたいへんにぎわっている。車や汽車がなかった時代は、金沢や山中からでもたくさんの人が歩いてお参りに来たという。片道3時間から5時間かけても、お参りせずにはいられない祭で、加賀の国の人々にとって、特別なお祭りとして、位置づけられていることが伺える。

秋季例大祭・すいかまつり8月26日〜28日
菟橋神社の秋祭りを「西瓜まつり」という。昔、この秋祭りに、西瓜を売る店が何軒も並んだ。祭りの語源となっている。
本来は「水火(すいか)まつり」が正しい。「水」と「火」の祭りである。どちらも我々の生命の根幹に関わるたいへん重要な要素である。反面、洪水や火災など一度暴れ出すと我々の手に負えない驚異ともなる。「水」と「火」の大いなる恵みに感謝をする、そして大自然に畏敬の心を表すことが、このお祭りの意義である。
27日には、「水と火の神事」が行われる。御神火で清められた御神水が参揮者に振る舞われる,この水を飲むと1年間、無病息災で過ごせるという。
また、御祭神に因んで、古来より、力くらべの神事が行われている。
一つは27日の子供相撲である。小松市内やその周辺の小学生がまわしをかかえて集まってくる、2人抜き、3人抜き、トーナメントなどでカを競う。氏子の人々によってたくさんの景品が用意され、勝ち名乗りを受けるごとに、景品が増える。小さな腕では抱えきれないほど、たくさんの景品をもらえる子もいるようだ。
もう一つの力くらべとして、磐持ち神事がある。27日と28日の夜に土俵の上で行われる。ルールはいたって簡単で、80s相当の米俵を肩まで持ち上げればいい。参加は自由で、誰でも何回でも挑戦できる。毎年、100人近くが成功している、俵を持ち上げると、次ぎに石に挑戦できる。この石が何とも重く130s前後もある。石を肩まで上げられる入は、毎年2,3人しかいない。土俵の周りにはいつしか何重にも人だかりができ、どこからか「よいしょ!」とか「がんばれ!」「もうちょい!」などのかけ声がかかる。子供相撲とともに、西瓜まつりの名物神事となっている。

由緒書






戻るボタン


加賀国INDEXへ        TOPページへ 学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録