本社の南々東約1.25Kmの赤穂谷に、滓上神社の奥宮がある。この奥の宮こそ、滓上神社の創社と言う。 奥宮の神域には樹令一千年にも及ぶという柏槙がある。この柏槙は、樹高11m、古來神木として崇敬されている。昭和42年11月3日、小松市文化財に指定されている。 旧社地は滓上川と梯(かけはし)川との合流点近くであるため、古来より、しばぐ洪水等に悩まされた。明治17年には大洪水のため、御神宝さえ流失してしまうに至った。そこで、明治22年3月、現在の地に遷した。 |
由緒 延喜式.式内社滓上神社の由緒 当社の創祀遼遠大寶2年4月の創建で上古よりの旧社にて、旧由緒書によれば垂仁天皇の皇子五十日帯彦命が高志道越の国の中(現神地所在地)に下向あり、越前を経て当地に幾星霜駐留あらせられ、大いに教化を布き稼穡を勧め給いしにより、民庶靡然として王徳の高大に感じ、守護神として古から遠近より祈願する崇敬者多く、之を以て醍醐天皇の延長五年延喜式の神名帳に登載され能美郡式内社八座の一となり、新年奉幣の儀あり、国司国守の祈願あり、嘉祥3年正六位を授けられる、元慶元年幣帛に預り、永保6年正四位に進み、昭和17年社格郷社に列せられた。 当地では昔より郷神様と申す通稱あるは高志道越の国の中の地域を輕海の郷と稱する地域で郷の守護神とも伺へる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
滓上神社 主祭神 垂仁天皇の皇子五十日帯彦命 配祀神 與田別命・息長帯姫・菊理媛命 当社は創始悠遠年紀未詳なるも、上古よりの旧社にして、旧由緒書きによれば、垂仁天皇の皇子五十日帯彦命が越しの国に下向あり、越前を経て当地に幾星霜駐留あらせられ、大いに教化を布き稼穡を勧め給いしにより、民庶靡然として王徳の高大に感じ、守護神として古から遠近より祈願する崇敬者多く、此を以て醍醐天皇の延長五年延喜式の神名帳に登載され、能美郡式内社8座の1となり、例年奉幣の儀あり、国司、国守の祈願あり、承保6年神階正四位を授けられ、昭和17年社格郷社に列せられた。 なお当社はもと現在地の北方200mの平地にありしが、明治17年の大洪水で被害を受け、同じく水害に遭った当町寺家に鎮座の八幡神社と共に明治22年2月に当森山の高台に遷座し奉ったのである。 一、他の合祀社について 神明宮 祭神 天照大御神 白山社 (元ハカン谷に鎮座) 祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、菊理媛命 八幡社 (元シン谷に鎮座) 右二社は明治四十年に遷座される。 一、産土の神のいわれ 私達日本民族の祖先は、自然界に神の遍在を信じ、一方産土の神や氏神は有縁の地域及び住民を特に守護し給う神さまとして奉祀して来たのが神社であると拜察し奉る。 昭和61年9月吉日 社頭石碑 |
滓上神社 当社の創祀遼遠大寶2年4月の創建で上古よりの旧社にて、旧由緒書によれば垂仁天皇の皇子五十日帯彦命が高志道越の国の中(現神地所在地)に下向あり、越前を経て当地に幾星霜駐留あらせられ、大いに教化を布き稼穡を勧め給いしにより、民庶靡然として王徳の高大に感じ、守護神として古から遠近より祈願する崇敬者多く、之を以て醍醐天皇の延長五年延喜式の神名帳に登載され能美郡式内社八座の一となり、新年奉幣の儀あり、国司国守の祈願あり、嘉祥3年正六位を授けられる、元慶元年幣帛に預り、永保6年正四位に進み、昭和17年社格郷社に列せられた。当地では昔より郷神様と申す通稱あるは高志道越の国の中の地域を輕海の郷と稱する地域で郷の守護神とも伺へる。 社頭掲示板 |