菅生石部神社
すごういそべじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】菅生石部神社 加賀国 江沼郡鎮座

   【現社名】菅生石部神社
   【住所】石川県加賀市大聖寺敷地ル−81−乙
       北緯36度18分47秒、東経136度19分15秒
   【祭神】天津日高日子穗穗出見命 豊玉毘賣命 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命
   【例祭】2月10日 例大祭
   【社格】旧国幣小社
   【由緒】敏達天皇の時禁裏に勧請
       用明天皇元年(585)9月当地に遷座
       白鳳五年(677)天武天皇国家安泰を当社に祈る。御願神事
       元慶7年(883)12月28日正五位下(三代実録)
       天慶3年(940)正月15日正四位下(日本紀略)
       治承4年(1180)12月正三位
       寿永2年(1183)礪波山合戦の際木曽義仲は能美庄を寄進
       元暦2年(1185)3月従二位
       建仁元年(1201)2月正二位
       弘長元年(1261)2月従一位
       建治元年(1275)7月正一位
       慶長3年(1598)10月13日寄進
       明治5年11月郷社
       明治6年5月県社
       明治29年3月19日国幣小社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない
        一説に元は菅生(大聖寺川の南岸大聖寺駅近く)にあった

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「敷地天神」と称していた
   【公式HP】 菅生石部神社
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・神饌所・祭器室・神門・舞殿・手水舎・齋館

   【境内社】

2月10日の夜には、「御願神事」が行なわれる。
この神事は、天武天皇によつてはじめられ、現在では市の無形文化財に指定されている。


由緒

社礼特殊信仰など
一、御本殿御扉のこと
御本殿御扉は古來如何なる祭典にも御開扉せざる事一社古傳の秘事である。
一、疫病(オコリ)落しの事
疫病を病む者暁に鳥居の下にて草履をぬぎ參拜祈願の上、うしろを振向くことなく女坂(東參道)を下りて歸宅すれば疫病落つと傳ふ。
一、鯛を供へざる事
御祭神日子穂々出見命の故事により古來鯛を神饌とせず。
一、御神使の事
蛇、龜は御神使にして祭禮豐玉毘賣命の眷屬なれば之を殺すことなかれ、若し之を食せば一生諸願滿足なしと旧記に傳ふ。
一、富樫かくれ道の事
昔富樫の先祖が宮地のとほりに來掛りし時、馬すくみて進み得ざりしを富樫は、我領内に坐す神にして我に咎めあることなし、馬に咎めあるなりとて、馬の首を切り拜殿に投げ込みしより、富樫一家は末末迄社前の通行かなはず、遂に山の後の小道を通路とせしかば、後世これを富樫のかくれ道といひ高き御神威を畏みまつれり。
創祀
用明天皇の御宇、越の江沼の土俗、禮節なく、剽掠を好みて農桑を務めざりしかば、御即位元年9月當地方鎭護の神として宮中より遷祀せしめ給ひ、當國の五穀豐登萬民富饒を御立願あらせられしを、創祀とする。
御神徳
古來武運守護神と崇め奉り後西天皇皇子御降誕の砌安産御守献上の事古文書に見ゆる如く安産御守護の神として又疫病解除、五穀豐饒、養蠶守護、漁業守護の大神として普く高き御神徳を仰ぎ奉れり。
社号と社格
古より菅生石部(すがふいそべ)神社と稱へ、中世以降民間にては敷地天神と申す。
延喜式内社、加賀二宮にして、明治29年3月19日國幣小社に列せらる。
崇敬のあらはれ
陽成天皇の御代正五位下に、朱雀天皇天慶3年正四位下に陞叙せられ、用明天皇御代諸國に疫病流行せし時疫病解除、五穀豐饒を祈らせ給ひ、天武天皇御願神事を始めさせられ、往古より正親町天皇の頃まで一年兩度の居入祭には勅使參向御衣神寶を奉らしめ給ふなど朝廷の御崇敬篤く大正3年攝政宮殿下北陸行啓の御砌には侍従御差遣奉幣あらせらる。
又、木曾義仲・富樫昌家・足利義持・豐臣秀吉・山口玄蕃等武門武將深く尊崇し、前田藩に及び氏神として神地寄進社殿造營調度の修造等絶えず、夏祭を藩祭となし藩の四民を參拜せしむる等崇敬の誠を捧げ奉れり。
特殊神事
一、御願神事 諸國に類例なき勇壯な神事で、毎年2月10日例祭に行はれ、天武天皇の御代、賓祚長久國家安全を祈り治世尚ほ亂を忘れざらしめんとの御立願により行はせ給へるにより御願神事と稱し、氏子崇敬者より奉納の青竹數千を潔齋せる氏子青年數十名、短き白衣一枚、白鉢巻姿で一齊に拜殿に上り喊聲を擧げて打ち割る。
其の音耳も聾し、齋庭に焔々と燃ゆる齋火と共に壯絶を極む。
竹を悉く打碎くや、更に青年は大縄を拜殿より持ち出して積雪の境内をエイエイと互に曳き合ふこと數度、社前の橋上より之を河中に投じて神事を終る。
旧記に大縄を曳き合ふは祭神日向の鵜戸宮にて神軍ありし御學びなりといひ、この縄は大漁に竹は悪事災難除け、豐蠶に靈験ありと信ぜらる。
神事前十日間は神社に於て一切の鳴物を禁ず。
一、夏祭 夏越祓(7月24日)疫神祭(7月25日)湯の花神事(7月26日)の三日間の祭典は災厄を拂ひ清めて四民の安穩と、當年の五穀豐登とを祈願し、敷地祭或は天神講と稱して、年中最も賑々しき祭典である。
神域と社殿
大聖寺川の清流のほとりなる、天神山(一名敷地山)に御鎭座、御社殿四圍の御山よりは今も土器等の出土多く御創立年代の古さが考察される。
社殿は本殿以下昭和13年8月、十ケ年の日子と十數萬圓の工費とを以つて新改築工事完成せるものにして、畏くも御内帑金下賜の恩命に浴し、御木の香も高き御社頭は千古の神奈備と共に尊嚴愈々加へさせらる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



菅生石部神社

創祀 用明天皇元年(西暦585年)
御祭神 菅生石部神 日子穂穂出見命
    豊玉毘売命
    鵜葺草葺不合命
境内末社 春日社 天児屋根命・径津主命
         武甕槌神・姫大神
     八幡社 応神天皇
     白山社 菊理姫命
     稲荷社 宇迦御魂命
     事比羅社 大物主命
     菅原社 菅原道眞公
     藤森社 大國主命
御利益 病気平癒 身体健康 安産 学業成就 武運守護
由緒  敏達天皇が宮中で祀り、用明天皇御即位元年に遷祀された。
以前はこの地は越前國であり、ここも越前国三ノ宮であった。
後に加賀國。二ノ宮となる。延喜式内社であり、明治には国幣小社となる。中世には京都の北野天満宮領となり天神信仰が盛となる。
美濃國にある天満宮はすべて当神社から勧請したという説もある。
京都・岐阜に当社より勧請の社多々有り。
崇敬のあらわれ 住古より正親町天皇の頃まで一年二度の居人祭には勅使参向御衣神宝を奉らしめ給うなど朝廷の御崇敬篤く。又、木曾義仲・富樫昌家・足利義持・豊臣秀吉・山口玄蕃等部門武将深く尊崇し、前田藩においては氏神として神地寄進社殿造営調度の修造等絶えず、夏祭を藩祭とし藩の四民を参拝させ、崇敬の誠を捧げ奉れり。
加賀市指定文化財(建造物)
『神門』
指定年月日 昭和51年7月19日
菅生石部神社の人口に建つ神門は、文政7年(1824年)起工、翌9年落成した。
設計者は、建仁寺流の名工山上善右衛門嘉広の系統で、七代目の善右衛門吉順と伝える。
総欅造唐様の楼門で、軒は扇垂水とし、天井は碁組となっている。
大聖寺藩主を始め有力町人や各階層の人々の寄進によるもので、大聖寺・加賀両藩の大工棟梁を動員して造立されたということが棟礼に記されている。
昭和5年修理の際、屋根が桟瓦葺から銅板葺となったが、全体に保存状態が良好である。
御願神事(俗称竹割りまつり)
畏くも、天武天皇白鳳五年(677年)宝詐窮国家安泰を当社に祈らせ給い、皇国の民をして治世尚乱を忘れざらしめんとの御立願により御願(こんがん)の神事を行わしめられ、毎年2月10日例祭当日厳粛に斎行せらる。
近郷の氏子崇敬者より寄進したる数百の青竹を七尺余りに切り、拝殿前に備え置き、祭典中かねて潔斎せる旧神領敷地、岡、両区の青年数十名身に白衣を着し、この竹を振り上げ喚声を揚げ斎庭に炎々と燃ゆる御神火を打ち潜り、拝殿内に突進して床を打ち、柱を叩き、白衣を朱に染まるも昂然として奮斗を続け、山なす竹をことことく打砕くその様は実に壮絶をきわめる。更に、青年は大蛇に疑したる大縄を殿内より引出し、神門を巡り、大杉を廻して互いに雌雄を争い遂にこれを大聖寺川に投下する。
神事終われば数千の参拝者は争いて破砕せられたる竹の頒賜を受く、この竹を常に用うれば悪事災難を除き疫病を免かると又、この竹を以って箸を作り之を常用すれば虫歯の予防は勿論のこと、ガン病たちどころに霊験表れるとの由。
なお、大聖寺川に投下されたる大縄を千切って魚網に結び付ければ大漁が得られるとか言われているところから御霊験高き御神徳が窺われるのである。

由緒書



菅生石部神社

加賀市指定文化財(建造物)
神門
指定年月日 昭和51年7月19日
菅生石部神社の入口に建つ神門は、文政7年(1824)起工、翌9年落成した。
設計者は建仁寺流の名工山上善右衛門嘉広の系統で、七代目の善右衛門吉順と伝える。
総欅造唐様の楼門で、軒は扇垂木とし、天井は碁組となっている。
大聖寺藩主を始め有力町人や各階層の人々の寄進によるもので、大聖寺・加賀両藩の大工棟梁を動員して造立されたということが棟札に記されている。
昭和5年修理の際、屋根が桟瓦葺から銅板葺となったが、全体に保存状態は良好である。
昭和61年12月
加賀市教育委員会

社頭掲示板



菅生石部神社

むかし疫病が流行しそれを鎮めるために用明天皇元年(585年)に宮中で祀っていた神々(現菅生石部神)をこの地にお遷しになり、疫病を鎮め五穀の豊穣を祈願したことにはじまる。
中世には越前國三ノ宮、後に加賀國二ノ宮となり、京都の北野天満宮領として天神信仰が盛で、明治期には國弊小社に列せられる。 住古より正親町夫皇の頃まで一年二度の居入祭には勅使が参向し、御衣神宝を奉まつるなど朝廷の崇敬篤く、木曾義伸・富樫昌家・足利義持・豊臣秀吉・山口玄蕃等部門武将深く尊崇。
前田藩においては氏神として神地寄進社殿造営調度の修復等が絶えず、夏祭天神講を藩祭とし、三日間の中の日を仕事休めの日として、藩内に住む人々全てを参拝させ崇敬の誠を捧げました。

公式HP



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