菅生石部神社
すごういそべじんじゃ


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【由緒】

國幣小社 菅生石部神社由緒記
石川縣江沼郡大聖寺町鎮座
祭神並に鎮座
趣前の国境を越えて、東に白山の霊峰を望み、加賀の平野に入るところ、大聖寺川の清流のほとりなる天神山の神奈備に、千木高知り、宮柱太敷立て、北陸道一圓鎭護の大紳と鎮まり坐すは、菅生石部神社である。
祭神
祭神は菅生石部神にまします。
社伝には天津日高日子穂々出見命・豊玉毘売命・天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命を斎き奉るといへり。
日子穂々出見命は天孫瓊々杵尊の御子にして、神武天皇の御祖父神にましまし。豊玉毘売命は日子穂々出見命の御妃にて、神武天皇の御祖母神にまします。豊玉昆売命が、海邊の汀に鵜の羽を葺草にして産殿を造り、其の産殿の未だ葺き合へぬ間に御出生あらせ給へる御子は、鵜葺草葺不合命にして、脚ち神武天皇の御父神にあたらせ給う。
鎮座
当社の御鎮座について社記に
「敏建天皇禁裏御所に御勤請御鎭祭あらせられし大神を、用明天皇の御宇、越の江沼の土俗、礼節なく、剽掠を好みて農桑を務めざりしかば、御即位元年9月当國鎮護の神として此の地に遷祀せしめ給ひ、五穀豊登萬民富饒を御立願あらせられしを創祀とず」
といへり。
当北陸地方は遠く崇神天皇の御代大彦命の御巡遊ありしを始めとし、景行天皇25年(紀元755)武内宿禰をして巡察せしめ給ひしことあり、朝廷にては夙に皇化に意を注がせ給ひし地方にして、成務天皇より雄略天皇の間(紀元791−1116)江沼・賀我・羽咋・能等に國造配置され地方行政整備の緒に就きしも、越後の渟足磐船に柵を築き蝦夷に備へられしは當社鎮座より六十年余り後年、孝徳天皇(渟足1307)、磐船(1308)の頃にて、これによりても、礼節なく、剽掠を好み、農桑を務めずといへる当地方の状態を窺ひ得られ、以って当社御鎮祭の高き御叡慮を仰ぎ奉り、由緒の深重を思うべきである。
社号
社號は往古より菅生石部神社(延喜式神明帳)と称へ、又単に菅生神(日本紀略、平家物語、義経記)とも、石部神(旧社記)とも称へ、中世以降民間に於ては敷地天神と申し奉れり。
皇室又は国家の崇敬
社記に当社夏祭の由來を記し「抑この祭儀は、用明天皇の御宇、諸国に疫病流行せしかば、畏くも宸襟を悩まし給ひ、忌むぺき災厄を払い清めて、四民の安穏と、日常年の五穀豊穣とを、祈らせ給ひしに始る」といひ、又抑願神事(例祭当日執行)は「天武天皇の御宇、宝祚無窮國家安泰を当社に祈らせ給ひ、治世尚ほ、乱を忘れざらしめんとの御立願により行はせられしに始る」と傳ふる如く、御創祀の御叡慮は申すも畏く、往古より朝廷の御崇敬格別にして、御鎮座後238年弘仁14年3月越前国より加賀を割きて立國せられし時、越前國三宮より加賀國二宮となり(白山記)それより数十年後、醍醐天皇の御代に撰修せしめられし廷喜式神名帳に祈年の國幣に興る社として加賀國江沼郡十一座中の一に数へられ、国家の宗祀として年毎に二月の祈年祭に際し幣を奉り國司の重き祭祀に輿る神社と定め給へり。これよりやゝ以前、陽成天皇元慶7年12月28日正五位下の神階を授け奉り給ひ(三代實録)後、朱雀天皇天慶3年正月15日正四位下に陞叙し給ひぬ。
又往古より正親町天皇の頃まで、毎年4月及11月の初の午日の居入祭には勅使参向御衣神宝を奉らるゝ例にて、かく古来よりの深き由緒を思召され明治29年3月19日國幣小社に列せられ勅使参向奉幣あらせられしより、神威愈々輝かせ給ひ、大正3年摂政宮殿下北陸行啓の御砌には侍從御差遣奉幣あらせられたり。
藩主武将の崇敬
皇室の御崇敬かくの如く深くましまししかば、古來藩主武將にして尊崇の誠を捧げしもの枚挙に遑なく、茲にその一端を誌す。
一、壽永2年木曾義仲加賀国能美荘寄進
一、至徳2年富樫昌家社殿造営寄進
一、応永20年11月2日將軍足利義持田地並山畠寄進(この緑高一寓石と称す)
一、豊臣秀吉社地寄進
一、慶長3年10月27日山口玄蕃頭供御米寄進(九石五斗)
一、同6年9月9日金沢藩主前田利長敷地材田地二町を寄進し、同年本殿幣殿を造営寄進
一、元和5年前田利常拝殿再建寄進
一、元和5年卯月17日前田利常室年々米五百俵寄進
一、寛永15年9月朔日金沢藩主前田利常岡村田地二町並山林一町一反寄進
一、元和5年前田利常社殿再建寄進
一、寛永16年萌田利治大聖寺藩主となりてよりは社殿、調度品等の修燈寄進絶ゆることなく毎年7月の祭典は恒例の藩祭として藩の四民を参拝せしむ。
神徳
古来武運守護神と崇め奉り、又安産守護神として、後西院天皇皇子御降誕の砌御安産祈祷を厳修し御守献上に対し藤原共方卿より若宮御降誕毎度御守の奇特御感悦不斜御趣を通達せる文書を存するによりても其の高き御神徳を仰ぎ奉りうべく、御鎮祭の始め五穀豊登萬民富驍を祈らせ給ひ、生業を興し疫病を除きて四民の生活を厚くし實に殖産興業の守護神として、当地方今日の隆昌を見るは偏に広大無邊の御神徳の賜である。

国幣小社菅生石部神社由緒記 昭和13年菅生石部神社社務所



【由緒】

延喜式内の古社。敏達天皇禁裏御所に勧請御鎮祭あらせられたのを、用明天皇の御宇、越の江沼の地の農桑励の御思召を以て、御即位の元年9月当地方鎮護の上五穀豊登万民富饒を御立願あらせられた。その後、天武天皇が治世にあっても尚乱を忘れないようにとの思召により、御願神事を始められ、往古から一年両度の居入祭には、勅使を遣して御衣神宝を奉られた等、古来、朝廷の御尊崇格別で、天慶3年には正四位下に昇格。又武門武将の崇敬も篤かった。明治29年3月19日国幣小社に列せられ、北陸道一円鎮護の神として五穀豊穣、疫病退散、安産育児守護の大神として広大無辺の御神徳を仰ぎ奉る。 

石川県神社庁






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