この地を服部神社の旧地とする説がある。 |
大堰神社 大堰宮御由緒 大堰神社は江沼郡山代町に鎮座、山代大堰神を祀る往古山背の郷社大堰宮と称せし之なり。淳仁天皇の天平寳宇年間(758〜764)大聖寺川椎木淵河岸の勝地をトして社殿を造営し奉り。庶民、此の神を敬して土地を開拓し産業に從ひ、地方発展の一大改新を見る。殊に治水灌概の大神として尊敬深く江沼平原一帯の土民は、爾来、忌浪大神と御神徳の崇高なるを称へ斎き祀りしと云い傳えらる。三代實録及び類聚國史に「貞観18年(876)7月21日奉授加賀国山代大堰神従五位下ヲ」とあり、之朝廷の御崇敬特に篤かりしを謹するものにして、國司郡司の崇敬亦言を侯たず。貞観は清和天皇の御代今より1070年以前にして、三代實録及び、類聚國史は醍醐天皇の延喜時代(927)、今より約千年前菅原道真勅を奉じて之を修したるものなり。本郡内、神社多しと雖も神階の特記あるは菅生石部神社、忌浪神社と合わせて三社とす。然るに其後政権武門に帰し群雄割拠して或は戦乱の巷となり、或は兵火に罹り社殿炎上廃絶して徳川末期に及ぶ。神慮に対し恐れ多き極と云うべし。天保14年(1843)秋、山代の住人高屋甚平衛神託を蒙り、旧地を開き神祠を再建して此の神を祀る。翌弘化2年(1845)大聖寺藩主の知る所となり、毎年春秋二回家老をして奉幣祭祀せしむ。明治維新以後、服部神社の境外末社として、4月8月の両度の祭典のみを執行して今日に及べり。鎮座地は大聖寺川の邊り、東に白山山脈を望み西は江沼平野に連れり。里人傳へて古墳なりと云い、又は地下数丈に大岩窟あり財寳埋没の古跡とも云い、或は古代の樋口ならんとも云ふ。現在の地域は町経営に属し、雲錦の風致を添へて大堰宮遊園地と名づけたり。今や昭和五歳の秋蘭なる9月大堰宮復旧を企圖して愈々進展の緒を見る。之全く神慮の加護と町民各位の熱烈なる敬神愛郷の精神に外ならず。畏しとも尊し。(大田記) 昭和5年9月21日 大堰宮社務所 撰文(大田記)は時の神官太田真澄氏 社頭掲示板 |
大堰神社 大堰宮公園は大聖寺川にかかる北陸鉄道(旧温泉電軌)電車の開通記念に桜並木がつくられて以来、桜の名所として知られ、平成山代八景の一つに指定されています。川では鮎釣りもでき、秋には美しい紅葉も見られます。 大堰宮神社は三代実録によれば貞観18年(876)、正六位から従五位下に進階しており、御祭神は大堰神です。大聖寺川の水を取り入れる堰がありこの堰を守るため、この名があります。 社頭掲示板 |
大堰神社 本社は創立の年代は不詳であるが、貞観18年7月21日従五位下を授けられた古社にあてられる。昭和20年12月14日村社に列格される。 石川県神社庁 |