天文年間(1552)朝倉義景の兵火に焼かれるまでは現在地より1Km程西の大堰神社付近にあつたと伝えられる |
由緒 服部神社由緒 天羽槌雄命は、天太玉命に隷属せる天日鷲命の御子にして始めて麻を以て文布を織り給ふて機織の業に特に功を成し給へり。 和銅年間勸請延喜式所載の古社にして、貞観16年5月従五位下を授けられ、社殿の構造宏大にして一に山背郷社とも言へり。 花山法皇北国下向の際、ここに参拝あらせられ神宝を寄進して厚く之を崇敬し、大聖寺藩主世々其祈願所となし給ひ山背郷民挙って、大神を渇仰せり。 天文年間、朝倉義景の兵火に罹り悉く鳥有に歸し、一時廃社とありしを明治8年7月再興し相殿に座す。 菊理姫命御奉斎の白山神社と合併して、郷社に列し明治17年3月7日懸社に昇格せらる。 爾来氏子の崇敬の念は益々篤く旺盛である。 平成3年11月山代日子命を増祀する。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
服部神社 【地名】一般的には機(はた)を織ることや、機織りをする人、場所などをいう。山代では現在の8区のあたりをさし、天文21年(1552)、朝倉義景の戦火で焼失する以前は服部神社がここにあったといわれている。一帯には上の宮(うわのみや)、下の宮(しものみや)、大の宮(現在の8区)、仁王門、門の前(現在の10区)、杜南(みやなみ)、八幡など関連する地名も多くあり、往時の服部神社がいかに立派で大きかったことが推測できる。 【神社】神社史には 和銅年間(708〜714)に筑紫国宗像大神(つくしのくに むなかたの おおかみ)(現在の福岡県の宗像神社)の工女が山代へ来て、機織や裁縫の技術を伝え、機織の神の天羽鎚雄神(あめのはづちをのかみ)を祀(まつ)るとある。元は大堰神社(おおひじんじゃ)付近にあり、 貞観16年(874)に従五位の位が与えられ、 延喜式明神帳(927)にのっている山背郷社(やましろのごうしゃ)と考えられている。花山法皇が北陸を巡行し、参拝したという時代には、たいへん立派だったこともうかがえる。しかし、 天文21年(1552)、越前の朝倉義景の戦火にあって社殿が焼失。江戸末期には廃絶されていたが、 明治8年(1875)、現在の場所に服部神社を再興。菊理媛神(くくりひめのかみ)をまつる白山神社と合併して郷社(ごうしゃ)となった。 昭和15年(1940)に拝殿を新しくし、旧拝殿は解体されて大堰神社に移築。その折の棟札に、文政9年の記載があった。 昭和63年、萬松園区画整備事業で108段の石段が改修され、 平成3年には山代日子命(やましろひこのみこと)を合祀。なお、境内には稲荷社(いなりしゃ)、琴平社(ことひらしゃ)がある。 公式HP |
服部神社 和銅年間、筑紫國宗像大神ノ工女兄媛ノ末山代の地(和名抄山背郷)ニ來リ機織及裁縫ノ術ヲ傳ヘタリ而シテ其住宅アリシ処ヲ服部ト云ヒ地主ノ神ヲモ服部ト申シ機織ノ祖神天羽槌雄神ヲ奉レルナリ 其頃當地ハ野桑多クシテ野生ノ蚕自然ニ生シ五六月ノ期ニ至り黄色ノ繭ヲ作ル然レトモ時人用法ヲ知ラス徒ニ野鳥ノ啄ム処トナリタレトモ遂ニ其用法ヲ考ヘ採リテ以テ衣服ノ中入綿トセリ其用法益ニ開ケ各家ニ蚕ヲ探リテ飼育スルニ至り種々ノ変化ヲ経テ近來飼育スル夏蚕(アヲデ)即チ之也ト口碑イ傳フ 地名ニ因ミテ服部神社ト称シ、一ニ山背郷社トモ言ヘリ、花山法皇北國下向ノ際コゝニ参拝シ給フ、當時堂塔整然タリシモ天文年間朝倉義景ノ兵火二罹ジ悉ク鳥有ニ帰シ一時廃社トナリシヲ明治8年7月再興シ、今ノ処ニ社殿ヲ築造シ応永十七年菊理媛神ヲ御勧請ノ白山神社ト合併シ、同月被列郷社同17年3月7日縣社ニ昇格シ、同39年12月29日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル 神社明細帳 |
服部神社 天羽槌雄命は、天太玉命に隷属せる天日鷲命の御子にして始めて麻を以て文布を織り給ふて機織の業に特に功を成し給へり。 和銅年間勸請延喜式所載の古社にして、貞観16年5月従五位下を授けられ、社殿の構造宏大にして一に山背郷社とも言へり。 花山法皇北国下向の際、ここに参拝あらせられ神宝を寄進して厚く之を崇敬し、大聖寺藩主世々其祈願所となし給ひ山背郷民挙って、大神を渇仰せり。天文年間、朝倉義景の兵火に罹り悉く鳥有に歸し、一時廃社とありしを明治八年七月再興し相殿に座す。菊理姫命御奉斎の白山神社と合併して、郷社に列し明治17年3月7日懸社に昇格せらる。爾来氏子の崇敬の念は益々篤く旺盛である。平成3年11月山代日子命を増祀する。 石川県神社庁 |