出雲国風土記の「奈売佐社」に相当する。 出雲国風土記には、「奈賣佐社」と「那賣佐社」とがあり、どちらかが当社・那賣佐神社で、もう一つが合祀されている和加須西利比賣神社にあたる。 郷名の起源になつた滑磐石は神社より東南約500mの川の中に在る高さ2m長さ10m余の集塊岩で、その上を漢水が流れ落ちていて、甌穴の如きものが五つある。これを「岩坪」といい、この周辺に「和加須世利比売」が坐ましたといわれる。 中世から近世にかけては神西八幡宮の陰に隠れ、江戸時代にも那売岐神社と神社側の棟札に記された程で、辛うじて命脈を保つていた。 |
那売佐神社 御祭神 葦原醜男命 須勢理姫命 大国主命の又の名を葦原醜男命と申し上げその后神は須佐之男命の御子でこの里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫命であります。 紀元733年天平5年に編纂された出雲国風土記によれば御祭神御夫婦が仲睦しく岩坪の宮殿でお暮しになっていたとき、或る日社前の渓流が岩苔の上をなめらかに流れているのをご覧になって「滑し磐石なるかも」と仰せられた「まねしいわ」「が約って「なめさ」となり、この地方を滑狹郷と称するようになった記録があります。 又これより約200年後の、延喜式神名帳に当社は神祇官に登録してある神門郡二十七座の内にあり、これを式内社といいます。 享保年間の雲陽誌んいは高倉明神とあり高倉山に鎮座せられているところから通称「高倉さん」とも称し、明治5年には社格郷社に列せられるなど洵に由緒深い神社であります。 社頭掲示板 |