大穴持伊那西波岐神社
おおなもちいなせはぎのかみのやしろ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】同社大穴持伊那西波伎神社 出雲国 出雲郡鎮座
          (本社)出雲大社

   【現社名】大穴持伊那西波岐神社
   【住所】島根県出雲市大社町鷺浦102
       北緯35度26分22秒、東経132度41分12秒
   【祭神】稻背脛命 (配祀)白兔神
   【例祭】
   【社格】旧県社
   【由緒】天平5年(733)2月30日「企豆伎社」「同社」『出雲国風土記』
       寛永2年(1625)造営
       桃園天皇の御代(1747−62)林丘寺宮親王菊御紋付提燈を寄進
       明治14年造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「鷺社」と称していた
   【公式HP】 出雲大社
   【社殿】本殿大社造(白木造)
       拝殿・手水舎・随神門・中門

   【境内社】

出雲大社境外摂社。
風土記の「企豆伎社」「同社」に相当する。
御祭神の稲背脛命は出雲国造の祖神、天穂日命の御子神である。「伊那西波伎」は国譲神話の「稲背脛命」に係わるのであろう。
天照大神の勅を受け建御雷神等は稲佐浜に降り立ち、国譲りの神勅を大国主大神に伝えた時、大国主大神の御子、事代主神は猟漁に美保関に出掛けていた。そのため、稲背脛命が使いに出され、事代主命を呼び還し国譲りについての諾否を問いた。
国譲りが武力によらずして平和裡に解決された事は、稲背脛命等の奔走の賜であり、その功績は大きいといえる。また、父神天穂日命の後を受けて大国主神の祭祀に仕えた。
疱瘡の神として知られ、桃園天皇の御代(1747〜1762年)には林丘寺宮二親王が疱瘡平癒の祈願を行い菊御紋付提燈二張を寄進している。
江戸初期の『懐橘談』に同社は「鷺宮」とみえており、四十二浦の版木の「鷺大明神」に符号する。「鷺」の呼称は『出雲国風土記』にみえる「鷺浦」に鎮座していたことによる呼び名である。


伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)

出雲大社摂社
伊奈西波岐神社
1.所在地 大社町大字鷺浦102番地
1.御祭神 稲背脛命
1.合祀町 八千矛神、稲羽白兎神、稲羽八上比売命
御祭神の主な事跡
御祭神の稲背脛命は亦の御名を大夷鳥命・天鳥船命といい出雲国造の祖神、天穂日命の御子であります。天照皇大神の勅を奉じて建御雷神等と共に稲佐の浜に降りて国譲り神勅を大国主神に伝え給うた時に大国主の御子、事代主神は狩猟に美保関に出かけていたので稲背脛命が使いをされて事代主命を呼び還し国譲りについての諾否を問い給い、国譲りが武力によらずして平和理に解決されました。この事は稲背脛命等の奔走の賜でありましてその御功績は偉大であります。又父神天穂日命の後をうけて大国主神の祭祀に仕えられました。
合祀神の事蹟
八千矛神 出雲大社の御祭神、大国主神の亦の名であり武勇にも勝れさせ給うたのと称え合わせ祀る。
稲羽白兎神 大国主神が兄弟八十神と因幡の国へ行かれたとき気多崎という所で膚が剥がされて苦しんでいた白兎を見てこれを助けた故事による。
稲羽八上比売神 大国主神が因幡の国へ行かれた折りに見そめられ、契りを結ばれ出雲に移らせたが嫡妻須世理毘売命を畏みて後に稲葉へ帰えられたという。

社頭掲示板



伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)

祭神 稲背脛命(いなせはぎのみこと)
天穂日命の御子神で、大国主大神が国土奉献の話し合いをなされた時、大神の命をうけ、三穂之関(美保関)の事代主神のもとに使者として奔走された神です。

公式HP



出雲国INDEXへ        TOPページへ



順悠社