出雲国風土記の「多久社」に相当する。 風土記楯縫郡神名樋山の條に、「郡家東北六里一百六十歩。高一百廿丈五尺、周廿一里一百八十歩。嵬西在石神。高一丈、周一丈許。側在小石神百余許。古老博云、阿遅須棋高日子命之后天御梶日女命來坐多久村、産給多伎都比古命。爾時教詔、汝命之御祖之向位欲生、此処宜也。所謂石神者即是多伎都比古命之御魂、當旱乞雨時令零也」とある。阿遅須枳高日子命の后・天御梶姫命が当地で、多伎都彦命を生んだという。 別の縁起もあって、安康天皇の御代、近江から勧請し、大船山に鎮座したという。 |
多久神社 多久神社由緒概要 鎮座地 平田市多久町274番地 祭神 多伎都彦命 天御梶姫命 猿田彦命 鈿女命 祭儀 例大祭11月3日 他に恒例祭六回 境内神社 客神社 伊弉諾命 伊弉冊命 若宮神社 宇賀魂神外三神 由緒 延喜式内社 出雲風土記所載 旧社格 郷社 明治4年7月列格 猿田彦命、鈿女命は拝田神社(字持田)の祭神であったが、明治39年12月30日本殿に合祀された。 延喜式神名帳並びに出雲風土記に多久ノ社、楯縫郡多久村大布彌大明神と記され、今で云う大船山の嶺の西に「石神あり、高さ一丈、周り一丈ばかり、側に小石神百余ばかり」古老の伝え云うには「阿遅須択高日子ノ命の后、天御梶日女命が多久村においでになり、多伎都彦命を産み給うた聖地である。即ち、所謂石神(烏帽子岩)は多伎都彦之命の御魂であり、旱にあいて雨を乞う時は必らず零らせたまえり」と記されている。 神名樋山と簓神事 出雲風土記にある四つの神名樋山の一つである。大古神様をお迎いし、斎場としてふさわしい清浄で最適の勝地で、秀麗な山であり海が見えることが条件であった。この神名樋山が大船山であり、多伎都彦命を祀る御社はこの麓にある多久神社である。 その昔、大船山麓まで海であった。遥か彼方近江国より、松本一族を始め大衆が大船大明神を供奉して、多久の郷へ大波小波を乗り超えやっとの想いで辿り着いた。その昔を偲ぶため鼓と簓などを用いて音を擬し、簓舞神事(昭和49年県無形文化財指定)として今日に至っている。この神事は、毎年例祭前夜と当日の二回行なわれ、石広、小北、湯屋谷尻、宮脇、新屋敷、大西、羽根屋、廻ノ奥の八軒の家で奉仕されている。 平成13年10月 多久神社由緒概要記より 社頭掲示板 |
多久神社ささら舞 出雲市多久町 多久神社のささら舞保持者会 旧平田市多久町の多久神社の例祭で奉納される田楽(でんがく)は「ささら舞」と呼ばれています。島根県内には四つの田楽躍が伝承されていますが、その一つで、多久(たく)神社にゆかりの氏子らによって伝えられています。ささら舞の始まりには次のような言い伝えがあります。昔、近江国松本村から、松本一族が船に乗って当地へ移住してきた。その船は大船山となり、祀る神は大船(おおふな)大明神となった。そして船旅の苦難をしのんで「ささら舞」を始めたというのです。今も松本姓の7家と多久和姓の1家(相撲が上手かった当地の実力者と言い伝えられています)とで、粛々と行われる儀礼的なものです。楽器は腰に着ける鼓、大ザサラ(ビンザサラ)、小ザサラ(擦りザサラ)で、大波・小波の舞などを行います。ささら舞が終わると大ザサラを持って個別の舞、そして儀礼的な相撲が行われます。島根県指定無形民俗文化財。 島根県立古代出雲歴史博物館 |