出雲国風土記の「長見社」に相当する。 当初は先田谷に鎮座。 「先田谷は中海の岸に沿う小丘の蔭の谷間で、現境内より約二町の前方にある。その神跡と称する地点は谷間が稍々小高く叢藪となつている所で、そこに四畳敷大の巨石が残つている。」と式内社調査報告に記載されているが、宮司に確認したところ、「この地区の古老数人に確認したが『聞いたことがない』ということであり、相当以前に土中に埋没し、地域の人々から忘れられたものではないか。現在先田谷は耕作放棄地となっており土地の所有者も何年も奥に入っていない。」とのことであった。 |
長見神社の笠たたき 日本国中に残る弁慶伝説。こちらの長海町は弁慶が生まれた土地として紹介されています。神社には、弁慶が書いたという「弁慶願状」なるものも残っているとか。今日は、そんな神社の例祭に奉納される不思議な神事を見学しました。菅笠をかぶった子どもが4人、太鼓に合わせて竹の棒で調子をとりながら左まわりに廻り、時折前を歩く子の笠を棒でたたきます。はじめゆっくりの回転も次第に速くなり、子どもたちは楽しそう。途中で2回ほど、ニニギノミコトに扮した着面の宮司さんがなにやら唱えながら中を割って入り、子ども達が座って控えます。天孫降臨伝説を表しているのだそうです。短い時間で終わってしまう、なんとも不思議な神事でした。 http://web.mac.com/mikatoto/Site/Fes_Blog/ |
長見神社 松江市長海町、長海川の北方に地域の鎮守社である長見神社が清楚に鎮座している。『出雲国風土記』島根郡の神社名は残念ながら五社を除いて欠落しており、本来、社名は不明であるが、幸いに平安時代の法律『延喜式』の神名帳によって「長見神社」はわれわれの前に姿を現す。『出雲国風土記』島根郡条に「長見川」がみえており、奈良時代にさかのぼり「長見」を冠する神社であったことがわかる。しかし、「長見」よりも現「長海」の名称の方が中海を前にした地理的環境を勘案すると適切のようである。歴史の悪戯であろうか。 長見神社は式内社であり、風土記社でもある。但し江戸時代では「杵田神社」と書されていた。どうも読みは「きねた」ではなく「きた」神社であったらしい。神社由緒では「当社はじめは先田谷」に鎮座し「大神を杵田(きた)神社ともたてまつり申す」とあるという。「先田」は「さ・きた」であろう。現在も先田という小字は残っており、文政年間の村絵図をみると先田に「森社」がみえており、それが長海神社の江戸時代の姿であった。 尚、未見であるが、長見神社には弁慶が納めた自筆の願文(写)があるという。明治の『八束郡神社明細帳』によれば同社の境内社として弁慶の母を祭神とする「弁吉女霊社」が記されている。もともと弁慶森に鎮座していたのを明治十二年に長見神社境内に遷したが、弁慶伝説への疑念もあり、「弁吉女霊社」は若宮社との改称を強いられたという。しかし昭和四十八年の『八束郡誌』には尚も「長見神社の境内社に弁吉女霊社と称する小祠がある」と明記されている。まことに「火のない所に煙は立たぬ」であり、伝説・伝承が生まれてくる歴史状況を今一度考えるべきではなかろうか。四十二浦巡りの産みの親、弁慶、その生みの親、弁吉、果たして彼女を祭る「弁吉女霊社」はいかようにあるのか知りたいところである。 島根半島四十二浦 神社・祭神 |
長見神社 内社 長見神社 出雲国 島根郡鎮座 現社名 長見神社 御祭神 瓊瓊杵命 ( ににぎのみこと ) 木花開屋姫命 ( このはなさくやひめ ) 旧社格 県社 長見神社は、瓊瓊杵尊 ( ににぎのみこと ) 木花開耶姫命 ( このはなさくやひめ )を祀り、出雲国風土記に長見社と記されている由緒ある神社です。 長海に生まれ成長した弁慶が、病床の母弁吉から語られた母の生い立ち、自らの出生から幼少期・青年期までのことを書いた弁慶願文 ( 社宝 ) が奉納されています。 その後、修行すると心に決めた弁慶は、此の地を旅立ちました。 社頭掲示板 |