出雲国内に数ある神社の中でも、最も早くからその名を史上に現わしてきた神社である。 『日本書紀』斉明天皇5年の条に「又、狗、死人の手臂を言屋社に噛み置けり。」とある「言屋社」、『出雲国風土記』意宇郡の条の在神祇官社「伊布夜社」に比定されている。 記紀神話の黄泉の国と現世との境である黄泉比良坂は、当社の東方・平賀字神子谷と伝え、揖夜神社から南東に2kmほど離れた場所に「黄泉比良坂伝説地」が存在する。 |
由緒 揖夜神社御由緒略記 謹みて按ずるに當社は 伊弉冉命 大巳貴命 少彦名命 事代主命 の四柱大神を齊き祀る。その御鎮座の由緒はえい沓遠にして詳悉すべからずと云へども、既に古事記神代巻には伊賦夜坂に就いて記され、降って日本紀齊明天皇御紀5年(紀元1319年1275年前)是歳の絛に言屋社言屋此云伊浮耶出雲風土記に伊布夜社延喜式神名帳に揖夜神社と載せられたり、古来朝廷の御崇敬厚く、三代實録に清和天皇の貞観9年5月2日(紀元1527年1617年前)揖屋神従五位上、同13年11月10日(紀元1531年1613年前)揖屋神正五位下御神階の御事見え特に出雲國造奉仕の神社として仄くより別火の職を定めらる。固より歴代武将の崇敬も他に異なるものあり、天文12年3月27日(紀元2203年391年前)大内義隆は太刀神馬を進獻し、同24年2月28日(紀元2215年379年前)尼子晴久は出東郡氷室庄の内百貫を寄進し、天正11年11月24日(紀元2243年151年前)毛利元秋は社殿を造立し、慶長6年卯月26日(紀元2261年333年前)堀尾吉晴は社領四十石を寄せ、元和元年11月27日(紀元2275年319年前)同忠晴は社殿を再建し、寛永11年9月26日(紀元2294年299年前)京極忠高は舊領を安堵し次いで社殿の修造を行ひしが、更らに松平氏に迄っては、寛永15年12年6日(紀元2298年296年前)初代直政社領五十三石を定めて年中の祭事を執行はしめ爾来歴代の藩主咸この例によれり、而して社殿の營繕は所謂御修覆社として同藩作事方の手に成り、御遷宮には藩主の代参立ち、又古例によりて出雲國造の奉仕ありき。明治5年2月郷社に列し、同40年4月28日勅令による神饌幣帛供進神社の指定を受け、大正15年11月22日縣社に昇列す。 當社は意宇六社(熊野神社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として広く知られ、六社参りと唱へ参拝者が甚だ多い。 大祭 例祭 10月19日 祈年祭 4月19日 新嘗祭 11月25五日 古傳祭 田打祭 1月3日 田植祭 6月 穂掛祭 8月28日 一ツ石神幸祭 同日 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
揖夜神社 〈特別神社〉揖夜神社 御祭神 伊弉冉命 大巳貴命 少彦名命 事代主命 御本殿 大社造(御神座は出雲大社と反対向に御鎮座) 境内社 韓国伊太氏神社 三穂津姫神社 御鎮座についての詳細は不明ですが、古事記神代巻には「伊賦夜坂」について記述があり、日本書紀齋明天皇5年の条に「言屋社」、出雲国風土記に「伊布夜社」、延喜式神名帳に「揖夜神社」の記述があり、平安朝以前から広く知られていた古社であります。 古より朝廷の崇敬が篤く、「三代実録」にば、清和天皇の貞観13年に「正五位下」の御神階が授けられた記録があります。 武将の崇敬も篤く、大内氏、尼子氏、毛利氏、堀尾氏、京極氏、松平氏がそれぞれ寄進や社殿の修造を行っています。 また、社殿の営繕は松江藩作事方で行われ、御遷宮には藩主の代参がありました。 當社は出雲国造との関係が深い「意宇六社」の一であり、御遷宮には今でも出雲国造の御奉仕があります。 社頭掲示板 |
揖夜神社 特殊神事 穂掛祭 祭りの前日に、中海の袖師ヶ浦で禊を修した後、社務所において新米をもって神酒や焼米などの神饌を調理し、当日穂掛榊(稲穂を榊に掛け瓢虹を付ける)を作って七十五か所に捧げ、その神饌をお供えする。 一ツ石神幸祭 袖師ヶ浦の沖にある一ツ石まで神輿を舟に載せてお運びし、禊を修して祭事を斎行する。穂掛祭当日の午後、当社の前灘より神船を出し、多数の船が先曳をなして祭事を執り行っている。本殿内の壁にその様子が描かれている。 遺跡 黄泉比良坂 記紀神話の神産みや大国主の神話に登場する黄泉の国(根の国)との境である黄泉比良坂の比定地が当社の東方の東出雲町揖屋平賀にあり、石碑が建てられている。 社頭掲示板 |
揖夜神社 奈良時代に中央政権が編纂した[日本書紀」の斉明天皇5年(659年)に、「この年、出雲の国造に命せて、厳神の宮を修めしむ、狐、於友郡〔意宇郡〕の役丁〔公用の労役に使われた成年男子〕の所執れる葛の末を噛ひ断り、而して去ぬ。また狗(犬)、死人の手腎(腕)を 言屋社に噛ひ置けり。言屋、此を伊浮揶といふ。天子の崩まさむ兆なり。」と記されています。 この報を受けた天皇は恐れ畏み、出雲大神の神慮を慰めなければならぬと、神殿の建造を急がせたと伝わっています。古くから、揖夜神社が黄泉の国に縁の深い社として、中央でも重視されていたことが窺えます。 社頭掲示板 |
揖夜神社 第二節 縣社揖夜神社 当社は八束郡揖屋町の内で市街地の東端、市原川の右岸なる字宮山の御鎮座で、境内は國道に接してゐるが、賽路は世の多くの古社の例の如く屈折して、つまり鳥居から本殿を一直線に望めないやうに出来てゐる代表的なものであります。本殿は十二尺四方の大社造で、向拝は普通の位置についてゐるが、御神座は神魂神社同様上図の如く構へられ、(佐太神社南殿及び飯石郡郷社狭長神社本殿もこれに近し。)且つ殿内には當社の古傳祭の状況が壁書に描かれて居ります。近く昭和9年の造宮を経て、昼なほ暗き鬱樹の森蔭に桧の香高き神殿は、二重に廻らせる透塀に中門・拝殿・神樂殿・神饌殿・随神門・末社・手水舎・鳥居・社務所等相連つて境内すべて六千八十八坪、外千三百六十九坪の境外保安林を合せて縣下有数の境域であります。祭神は伊賦夜坂の故事に基く伊弊冉尊に、大巳貴命・少彦名命・事代主命を配祀して10月の中の9日を例祭日とし、境内神杜には五十猛命を祀る式内の韓國伊太氏神社、三穂津姫命を祀る式外の伊布夜社があります。 さて当社はすでに齋明紀5年の條に言屋社として割註に言屋は此を伊浮揶といふとある神社で、三代実録には貞観9年5月2日出雲国從五位下揖屋神に從五位下を授け、同13年11月10日に正五位下を授奉る由が見え、早くより出雲国造との特別の関係が始つて所謂杵築五社の一に数へられたのである。かくて別火職が置かれ、承安2年9月16日三位大宅助澄が、親父助宗の譲に任せて別火職に補せられた以來の補任状が存してゐるが、それによると助澄の後宗澄、為澄と相受け、其の後数代を経て暦応5年頼澄が揖屋大社の別火職たりしより子綱澄は知行食免一町に対し天役並に領家年貢を免ぜられ、永享6年別火孝澄は当社供僧職を安堵された。当時は当社も國造の庄園として神魂・八重垣・伊弊諾・熊野・六所と共に意宇六杜と称せられ、各社の別火は各々その社の上官の祝部であつた。而して清瀧宮勧請神名帳には杵築・佐草・佐陀・揖屋と当国代表神社四社の内に列し、歴代の守護地頭の崇敬厚く、天文12年大内義隆は富田城攻略に際して太刀一腰・神馬一疋を寄進し、同24年尼子晴久は戦勝の報賽のため氷室の内百貫の地を寄進した。又別火秀澄の子直澄の時、天正11年毛利元秋大檀那、揖東淡路守桂林が本願として造営を行つたが、これより棟札にも揖夜大社と見えて居ります。次で慶長6年堀尾吉晴は揖屋村にて四十石の社領を奇進し、家老堀尾一信を惣奉行として造営を行ひ、其の後京極・松平の両氏また此の例に拠つた。然るに明暦の検地に際し社領地に十二石一斗三舛六合の出石があつたので、藩圭綱近以来此を加算して寄進することとなつた。又元文5年以來明治4年まで十三回に亘つて揖屋宮並に末社の社頭禁制札を出し、寛文8年以來所謂御修覆社として御作事方の修造が行はれ、其の他藩主の所請参拝があつて旧藩の待遇厚く、明治5年郷社、大正15年11月22日縣社に列せられたのであります。 なほ当社の社家井上氏は本氏大宅氏、當村の字宮氏山の世襲井で井神祭を行つて累代継承し来ってゐる揖屋別火の家で、上記具澄の後は政豊・縫之丞・大弐・采女・政延・掃部・千里・昌春・讃岐・嘉都良と傳へて当社司(為若)に至つてゐるのであります。 神国島根 |