玉作湯神社
たまづくりゆじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】玉作湯神社 出雲国 意宇郡鎮座
   【延喜式神名帳】同社坐韓国伊太氐神社 出雲国 意宇郡鎮座
          (末社)布吾弥神社
          (合祀)韓国伊太氐神社

   【現社名】玉作湯神社
   【住所】島根県松江市玉湯町玉造 508
       北緯35度24分49秒、東経133度0分43秒
   【祭神】櫛明玉神 大名持神 少毘古那神 (配祀)五十猛神
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天平5年(733)2月30日「由宇社」『出雲国風土記』
       貞観元年(859)7月11日正五位下
       貞観13年(871)11月10日正五位上
       寿永3年(1184)兵火焼失
       建久元年(1190)頼朝祭料田寄進
       文永9年(1272)4月造営
       正徳3年(1513)「湯舟大明神」と称
       慶安2年(1649)「湯姫大明社」と称
       寛文2年(1662)3月5日造営
       享保19年(1734)造営
       明治初年旧号に復し村社
       明治41年5月30日神饌幣帛供進社指定
       昭和3年3月23日県社

   【関係氏族】玉作部
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は温泉を祀る
   【祭祀】江戸時代は「湯船大明神」「湯姫大明社」(と称していた
   【社殿】本殿大社造桧皮葺
       幣殿・拝殿・神饌所・神器庫・収藏庫

   【境内社】素鵞神社・福徳神社・稲荷神社・布吾彌神社

風土記の「由宇社」に相当する。
神名の「玉作湯神」に関しては、「玉作神」と「湯神」の二元的性格が指摘されている。
出雲国造が神吉詞奏しに朝廷に参向する際の御沐の忌里であった。川の辺に湯が湧出していたという。
この一帯は弥生時代末期から玉作りが始まり、平安時代までの長期に渡っての玉作工房として、その作られた玉類は日本全国に送られたという。玉作湯神社境内全域が国指定史跡となっており、境内には町内全域から奉納・収集された古代玉作資料を収納する出雲玉作跡出土品収蔵庫が作られている。
明治以後、天皇即位の式典に際し、ここで作られた瑪瑙(めのう)・碧玉(へきぎょく)製品が献上されている。


由緒

玉作湯神社と玉造温泉之由来
一.玉作湯神社(内務大臣指定史蹟保存地)
御祭神、櫛明玉神(八坂瓊勾玉並に宝玉御製作の祖神)、大名持神・少彦名神(当地温泉発見、温泉守護、温泉療法、薬、秘呪の祖神)、五十猛神(同社座、韓國伊太弖社、植林・殖産・産業振興の祖神)。
玉作湯神社は、玉造温泉、玉造川東岸の小高い林の中に鎮座まします式内の古社であります。
「貞觀13年11月神階従四位下を授く」と三代実録に見え、現今は此の地の氏神で旧県社であります。
櫛明玉神は、天明玉、豊玉、羽明玉、玉祖神などの異称をおもちになって居て、天岩戸の前で神々のお計らいで神楽を奏せられた時、真榊の枝に懸けられた八坂瓊之五百箇御統玉は此の神の御製作であった事は、古語拾遺に明記せられ、玉作部の遠祖と仰がれ、此の地方に居住し、此の地の原石を採って宝玉の製作をお司りになったと伝え、日本書紀に「素盞鳴尊が天に昇りまさんとする時、羽明玉神(古語拾遺には櫛明玉命とあり)は道に出迎えて、瑞八坂瓊の勾玉を進め、素盞鳴尊は之を御姉天照大御神に献上になった」ことが記され、社伝には三種神器の八坂瓊の勾玉は命が御製作になったものと伝えています。
天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事し、其部の長たる櫛明玉命の薫督をお受けになったと云われ、古語拾遺に「櫛明玉命之孫、御祈玉を作る。其の裔、今出雲國に在り、毎年調物として、其の玉を進む」と記され、又同書に「櫛明玉命は出雲國玉作祖也」と見えています。
社宝1.上代各種玉類184点(重要文化財)2.上代玉磨砥162点(重要文化財)3.上代ガラス製造ルツボ片と上代ガラス一括(重要文化財)
二.玉造温泉
玉造温泉は少彦名命の御発見と伝えられ、JR玉造温泉駅から玉造川に沿って上ること約2キロ、玉造郷にあって玉造川の清流を挟み、要害山、花仙山の二山を負って多くの人家が相連なり渓間の一小区をなしています。
「出雲國風土記」意宇郡の条に「忌部神戸、郡家の正西廿一里二百六十歩。國造、神吉詞を奏しに朝廷に参向する時、御沐の忌玉作る、故に忌部という即ち川辺に出湯あり、出湯の在る所、海陸に亘り男女老少、或は道路に絡繹り、或はSI洲に郡集いて市を成し、繽紛燕会。一濯すれば形容端正、再濯すれば万病ことごとく除く。古より今に至るまで験を得ざることなし、故に俗人神湯といえり」と記されております。
(注)文中のSIは、「石」偏に「止」です。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



玉作湯神社

玉作湯神社と玉造温泉
一.玉作湯神社(内務大臣指定史蹟保存地)
櫛明玉神 八坂瓊勾玉並宝玉御製作の祖神
大名持神 当地温泉発見・温泉守護
少毘古那神  温泉療法・薬・秘呪の祖神
五十猛神 同社座・韓国伊太氐社
玉作湯神社は、玉造温泉・玉造川東岸の小高い林の中に鎮座まします式内の古社であります。
「貞観13年11月神階従四位下を授く」と三代実録に見え、現今はこの地の氏神で旧県社であります。
櫛明玉命は天明玉・豊玉・羽明玉・玉祖神などの異称をおもちになっていて、天岩戸の前で神々のお計らいで神楽を奏せられた時、真榊の枝に懸けられた八坂瓊之五百固統玉はこの神の御製作であったことは、古語拾遺に明記せられ、玉作部の遠祖と仰がれ、この地方に居住し、この地の原石を採って宝玉の製作をお司どりになったと伝え、日本書紀に「素盞鳴尊が天に昇りまさんとする時、羽明玉神(古語拾遺には櫛明玉命とあり)は道に出迎えて、■八坂瓊の勾玉を進め、素盞鳴尊は之を天照大御神に献上になった」ことが記され、社伝には三種神器の八坂瓊の勾玉は命が御製作になったものと伝えています。
天孫降臨の際、櫛明玉命は随従の五部の神の御一人として、玉作りの工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に、出雲玉造郷に留まって、造玉に従事し、其部の長たる櫛明玉命の薫督をお受けになったと云われ、古語拾遺に「櫛明玉命之後、■祈玉を作る。其の裔、今出雲国に在り、毎年調物として、其の玉を進む」と記され、又同書に「櫛明玉命は出雲国玉作祖也」と見えています。当神社の御祭神の命がこの地に於て、この地の原石を以て、宝玉を製作せられた上代の御遺物が所蔵され、又、今にこの地から発見せられ、本神社に奉納されている事は、玉造の地名と合致して、上代の盛業を偲び誠に尊敬にたえません。また大名持命・少彦名命の二神は共に国土経営、医療、医薬及び秘呪の術を創始になり遍く世人に施しその病苦を治癒になり、温泉療法・秘呪又は草根木皮を医薬として人命養護に御使用せらる等の御祖神として祀られています。
社宝
1.上代各種玉類  184点(重要文化財)
2.上代玉磨砥   162点(重要文化財)
3.上代ガラス製造ルツボ片と上代ガラス一括(重要文化財)
二.製玉の由来
当地、花仙山は、製玉の原石たる瑪瑙に富み、この玉造郷は櫛明玉命の起業地として、その御子孫代々この地に居住し、製玉事業を世襲し給うた。神武天皇御即位の時には命の御子孫、御祈玉を献上して践祚を賀し奉り、爾後舞歳玉を調物に添えて貢献し給うたことが記され、延喜式神祇臨時祭の条に「出雲国進むる所の御富み岐玉六十連、毎年十月以前。意宇郡(現在八束郡)■■の玉作氏をして造り備えしめ、使を差して進上」云々と見えており、当地は青・赤・白の瑪瑙、水晶等を産し、殊に青瑪瑙は玉造の特産で天下一品と称せられています。
玉の琢磨法は原石を石槌で打砕き、その良好の部分を選んで玉磨砥にて玉の形に磨き上げ、さらに硬質の玉砥にて光沢を出したものとされています。
又、鉱石を砕いて粉末とし、これをルツボにて溶解しガラスとして練って吹き出して造った硝子玉も玉造部で製作されたものと云われ「工芸志料玉の部」にも出雲国造の献ずる所の玉は真玉(瑪瑙玉)、国司の奉る玉は吹玉(硝子玉)なり、と記され、社宝として現存する上代ガラスの附着せるルツボ片、上代ガラス塊及びその原料の半ば溶解せるもの等からして、上代玉造に於いてもガラス製作が行われたことが明らかです。
三.玉造温泉
玉造温泉は少彦名命の御発見と伝えられ、国鉄玉造温泉駅から、玉造川に沿って上がること約2Km、玉造郷にあって玉造川の清流を挟み、要害山・花仙山の二山を負って多くの人家が相連なり渓間の一小区をなしています。
「出雲風土記」意宇郡の条に、忌部神戸、郡家の正西二十一里二百六十歩。国造神吉詞を奏しに朝廷に参向する時、御沐の忌玉作る、故に忌部という即ち川辺に出湯あり、出湯の在る所、海陸に亘り男女老少、或は道路に格■り、或は■州に郡集いて市を成し、■■■会。一濯すれば形容端正、再浴すれば万病ことごとく除く。古より今に至るまで験を得ざることなし、故に俗人神湯といえり」と記されております。
この忌部神戸の神湯は玉造温泉で維新以前神湯の温泉は、松江藩主松平公の御茶屋ありて入湯のため度々御来館あり現に神湯は地名として、又家号として存在し、区民の浴場等も現存し、天平5年出雲風土記撰修の時既に前記の如く繁昌していたから、この温泉の発見は余程古く、出雲国造が天皇に神吉詞奏上のため上京の途次、この温泉にて斎戒沐浴になられたと記され、その後温泉は洪水のためすたれていたものを佐々木義■(富士名判官)が夢告により川中に温泉を発見し、薬師堂を建立し、湯船を構え、上屋を造って、温泉を復興された折節月が東天に昇ったので、
「瑠璃光の心は真如の玉造り
 薬の湯には月も入りけり」
と即吟したと伝えられています。
天正年中、地震洪水のため流失し、慶長年中堀尾忠■之を再興し、松平氏に至って浴室の改造、御茶屋の建造があって、明治維新より今日に至った事は上述の通りです。
玉造温泉はラヂウムを含有する塩類泉で、温度高く、泉質透明で僅かに白色を帯び古くから神湯として特効が大きいと云われています。

社頭掲示板



玉作湯神社

玉作湯神社名は、奈良時代の「出雲風土記」天平5(733)に記された古社であり、式内社でもある。
ご祭神は、玉作の神櫛明玉命、国造りと温泉療法の神大名持命(大国主命)、温泉守護の神少彦名命の3神。
神社境内は、全域が国指定史蹟で、花仙山周辺では最古の玉作り遺跡である。
江戸時代には、隣接するお茶屋(松江藩別荘)に、たびたび歴代藩主の逗留があり、神社への崇敬も篤かった。
明治以後、天皇即位の式典に際し、ここで作られた瑪瑙(めのう)・碧玉(へきぎょく)製品が献上された。

社頭掲示板



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