玉作湯神社
たまづくりゆじんじゃ


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【由緒】

第六節 県社玉作湯神社
当社は八束郡玉湯村大字玉造、字湯端の鎮座で出雲玉作部の祖神櫛明玉命に、温泉の神の大名持明・少毘古那命及び五十猛命(式の同社座韓国伊太氐神社)を祀り、境内はさまでは広からねど、風土記に所謂玉造山に拠つて(中央をさけて山の右端に)鬱蒼たる茂林を負ひ、玉造川の清流を帯して、大社造十尺四寸に九尺六寸の御本殿以下諸殿相並び千古の俤を存して居ります。
貞観13年11月10日出雲国正五位上湯神に従四位下を授け奉ると三代実録にあるは式の玉作湯神社の社号に考へて当社のことなるべく、然らば寧ろ温泉神と聞ゆるが、兎に角御神階において当国第三位に坐すわけで、風土記に社前の温泉を神湯と称し、国造の御沐を始め男女老少庶民の参集する所と見え、後世大名持少毘古那二神を祀つて湯船大明神と称した由来も知られる。中世、背後の要害山に佐々木の一族湯氏が居城してより同氏の崇敬浅からず、弘安4年には佐々木伊予守より陣太鼓を寄進し、永禄元年には地頭湯宮菊丸より修造を行つたが、慶長12年には堀尾氏が造替し、松平氏になつてからは修理料を献じて居ります。而して當地は湯泉場なので藩主も屡々來つて社参もなし、不昧公よりは社號額及び采配など奉納されてゐる。かくて明治4年旧號に復して村社に列したが、大正11年には当社境内一帯及び玉宮・宮垣等を史蹟保存地に指定され、昭和3年には縣社に昇格、同10年久邇宮大妃殿下の御参拝及び東伏見伯爵の参拝があり、同14年には当社社宝の内で古代玉類及び同未成品等百五十五点、古代玉磨砥百点、古代硝子片、坩堝残片等を國宝に指定されたのであります。
史蹟保存地として指定された玉ノ宮は、当社の南方八町、玉宮川の渓流に沿うた山腹一帯の総称で、この峡谷の小丘に玉ノ宮といふ小社があり、櫛明玉命を祀つてあつたが、先年当社境内に奉遷した。その旧迹附近の丘陵からは瑪瑙類を産し、玉類の未成品・玉磨砥等を発堀する。又、宮垣は花仙山の麓、当社の北方約六町なる瑪瑙碧玉の産地で、今は畑となつてゐるけれど、古代の屋敷迹らしき処を存し、附近に記加羅志神社の旧迹があり、玉類及びその来成品・玉磨砥等を出土した所であります。近来社前の温泉街が頓に繁昌して参拝者も多く、從つて出雲攻玉の遺迹を訪ふ懐古の士の来観も亦多いのであるが、この温泉街には今もかの玉作部の子孫が攻玉に從事してゐること、洵に神國の奇瑞とすべきでありませう。祭日は10月10日、社司は累代奉仕の遠藤氏であります。

神国島根



史跡出雲玉作跡

史跡出雲玉作跡(宮ノ上地区)(国指定史跡、大正11年10月12日指定)
町内にある国指定玉作跡3カ所のうちの一つ。玉作湯神社の境内を中心とし、約8840平方メートルの広さがある。保存管理計画策定のため昭和58年から59年にかけて発掘調査を行った。弥生時代の末期から古墳時代の後半まで盛んに玉作りを行っており、工房 の一部や大溝が発見されている。花仙山周辺では最初に玉作りが行なわれた地域。現在埋め戻しているが、将来は史跡公園として整備予定。
平成8年3月 玉湯町教育委員会

社頭掲示板



玉宮史跡

内務大臣指定史跡保存地 玉宮史跡(玉作湯神社社有地)
 この地は、上代攻玉の祖神櫛明玉命初めて攻玉の業を起こされし地と云われ、古語拾遺にも「櫛明玉命は出雲国玉作の祖なり」と見え、命を御祭神とする玉宮神社の遺跡で、同社境内地及び附近を玉の宮と称する。
 同社殿は、大正四年玉作湯神社境内に奉遷されてより、現今の旧跡を存す。社伝には、この地域は櫛明玉命御起業地にして、初めて攻玉の業を起こし給うに始り、爾後攻玉部の工人集落をなして製玉の業を行われし処と伝えられ、近くには大連塚と称し、上古玉作連(むらじ)の祖を祀れる塚をも現存する。
 此の地は、天正年中及び、万延元年両度の洪水に玉宮川氾濫し地相著るしく麥動を来たせるも、往時にありては山に拠りたる平地ありて往居にも適当の地であったと伝えられている。附近の丘陵には、製玉の原石たる水晶・瑪瑙の類を蔵す。上代において、これ等の原石を以って作られた勾玉を初め、各種玉類並びにその未製品及び玉磨砥、また上代硝子(石+鬼)同坩堝片土器等多数この地域から発見されていることは、これ等上代玉作の由緒を突証している。而して、この地域は我國史上貴重な上代遺蹟として、大正十一年内務省告示第二七〇号をもって史跡保存地にしてされている。
昭和39年12月1日
(平成10年9月4日再記) 玉湯町

社頭掲示板






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