真名井神社
まないじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】真名井神社 出雲国 意宇郡鎮座
   【延喜式神名帳】勝日神社 出雲国 意宇郡鎮座
          (旧地)真名井の滝

   【現社名】真名井神社
   【住所】島根県松江市山代町84
       北緯35度25分57秒、東経133度5分51秒
   【祭神】伊弉諾尊 天津彦根命
   【例祭】10月17日 例祭
   【社格】旧村社 意宇六社の一社
   【由緒】天平5年(733)2月30日「真名井社」『出雲国風土記』
       建長3年(1151)8月伊弉諾社「出雲国庁宣」
       寛文2年(1662)造営
       天和3年(1683)「伊弉奈枳社」『出雲風土記鈔』
       享保2年(1717)「伊弉諾社」『雲陽誌』
       宝暦14年(1764)伊弉諾大社旧号真名井神社「意宇郡山代郷社帳」
       文化9年(1826)祭神伊弉諾尊「社帳」
       明治5年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは真名井瀧のほとりに鎮座
        天和から享保に至る間に伊弉諾社の境内に遷

   【祭祀対象】本来は滝を祀る
   【祭祀】江戸時代は「伊弉諾大社」と称していた
   【社殿】本殿大社造檜皮葺
       拝殿・随神門

   【境内社】末那爲社

『出雲国風土記』意宇郡条に在神祇官社の「眞名井社」と不在神祇官社の「末那爲社」の2社が記載されており、また『延喜式神名帳』出雲国意宇郡に「真名井神社」の記載がある。しかし当社は天和3年(1683年)の『出雲風土記鈔』には「伊弉奈枳社」、享保2年(1717年)の『雲陽誌』には「伊弉諾社」と記載されており、江戸時代には「伊弉諾社」と呼ばれていた。明治に入り「真名井神社」と改称した。
天和のころには、真名井瀧のほとりに真名井神社と称する小社があり、それを天和から享保に至る間に伊弉諾社の境内に遷し、若宮と称し、やがて瀧神社と改称した。この、古くは瀧の下にあり、後には新興伊弉諾大社の境内社となつた小社が、風土記・式以來の真名井神社ではないか。
本殿の向かって左に末那爲社(倉稲魂神)がある、風土記にいう不在神祇官社の末那爲社である。社人の話では元は真名井瀧のほとりにあったものをこの地に遷という。
当社の東方に「真名井の滝]」と呼ばれる滝がある。『雲陽誌』ではこの滝の近くに「真名井荒神」があると記し、そこを風土記の真名井社に比定している。この滝壺で汲まれた水は古来より出雲国造の神火相続式や新嘗祭の際に用いられたとされる。
当社を式内社・勝日神社とする説もある。


由緒

眞名井神社御由緒
当社は出雲国風土記に言う眞名井社、延喜式に記す出雲国意宇郡眞名井神社であり古い歴史をもつ意宇六社の一つである。祭神は伊弉諾尊で国土生成の大神で夫婦の道を興し人倫の大本を定め、禊祓の神業に依り天照大神、月讀命、素盞鳴命の三貴子を生み成し給うた。天津彦根命は天之眞名井の狭霧に成りまし、古くから当地方に居住する山代一族の始祖であらせられる彼れ出雲国造家に伝はる火継式に当社眞名井の神水が用いられる所以である。古文に古来朝廷を始め奉り世々の国司、領主、藩主の崇敬篤く別して出雲国造の崇敬は深かった中近世は、伊弉諾社と称されたが明治時代に旧号に復し村社に列せられた社殿は、本殿、中門、拝殿、神楽殿三つの境内社から成る。本殿は大社造りで寛文2年松江藩祖松平直政に依る軸立て殿内に神仏習合の名残を止める彩色絵があり、昭和49年県文化財の指定を見た。拝殿は昭和9年の新築で土間床式である。背後の社山は所謂神名樋野(山)で出雲国四神奈備の一つである。その東南麓に眞名井の滝を存す。祭日は10月17日が例祭で、神紋は当地特有の二重亀甲に有の字である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



眞名井神社

御祭神
伊弉諾尊 天津彦根命
祭日
10月17日
12月6日
4月17日
御神徳
伊弉諾尊は神世七代の神の最後に生せる神にてましましわが大八洲國のいまだ整備はざるを天神の命をもつて萬物を修理國成の大業を完成せられ此國土を統治爲給ふ萬神の大祖の神でありまた人諭の大本たる婚姻の道をひらき給ひ或は祓除により災厄ご罪穢を解除して人間本來の天職に目覚ると云ふ大精神を傳へ給へる御神徳實に宏大なる神にてあらせられるにより縁結びの神として或は諸災除け病氣平癒等の神として古來より諸人の信仰厚く又天津彦根命は天照大御神と素盞鳴尊と八坂瓊之五百箇御統玉を天真名井に濯ぎて御誓約あそばされた中に生れ給ひし神にましまして當社御鎮座の地たる山代郷の地方に大古より住居せる山代直(日本書記云)の祖神にてあらせられ實に天照大御神の大御心により出雲大社の祭祀を奉仕せらる、天穂日命(出雲國造千家、北島両家の祖神)の御弟神に当らせられ大國主神が國土奉献の大義名分を遂させらるべき天使として天神が此國土に天降し給へる天穂日命と共に天降り給ひ其大使命を功けさせられし神にましまして國民道徳の大本の所以を説かせ給ひ地方開拓の旭神として一般衆庶の讃仰厚き神なり
御由緒
御當社御鎮座の濫觴は悠遠にして窺知し能はすと難もこれが御鎮座の地が出雲風土記に日ふ神名備山(神並、神森、神隠の転訛)なることは其起原の尋常ならざるを察せらる而して早くより神祇官に祭られ給へるを以つて出雲風土記並に延喜式神名帳に記戴せられ給ひし所謂式内社にして出雲大社、同御碕神社、佐陀神社、神魂神社、八重垣神社等と共に出雲六社と称せられ又熊野大社、神魂神社、八重垣神社、揖夜神社、六所神社等と共に意宇六社と称せらるる名社なり
往古より朝廷を始め奉り國守武門武将藩主、領主等の崇敬厚く就中文徳天皇の仁壽年聞及び清和天皇の貞観年聞に於いて朝廷より再度にわたる奉籍及斑幣の事ありしは最も其顯著なるものなり
又現存せる古文書中披見する主なるものによれば建長年間及康元年間に於て再度庁宣を以つて神田神畠或は料田の寄進あり応安年間に足利義満応永年間に足利義持等の御造営の事あるを始として尼子、毛利、吉川、徳川、京極等の藷將及び堀尾、松平の両藩主は祈請に料内社領又は実物等の寄進或は御造営御修覆等により崇敬の誠をつくすと共に武運長久除災安全病氣平癒を祈請する等當社の御神徳を景仰し祈請奉賽の至誠をささげしもの極めて多し
而して社殿其他諸建築物の修造は所謂御修覆社と称せられて鎌倉時代以來國費を以つてせられ松江藩威立してよりは式年の造営年分の営繕御遷宮等も藩費によつてせられ御遷宮の際は藩主代参及び出雲國造の参向によつて御遷宮を行ふを古例とせり
往昔七月七日の當社大祭日なりし時は荘厳極りなき舞樂流鏑馬神幸の式行はせられ此の盛儀を拝観せんと数万の民衆さしもに廣き境内外に殺到し實に殷賑を極めたるものなりしが寛文元年社殿焼失以來中絶の止むなさに至れり
而して古くは神主別火職、注連■取職、神子、宮守、祭所、御供焼、平社人宮大工等の社職数十人附属して日夜社頭に奉仕せる等を見れば御神徳彌々高き古社なる事を知るを得べし
御社號
御社號を真名丼と称するは乃ち所謂「天真名井」の真名井にして實に井泉に祀れる故なり蓋し此の如きは我か古代祭祀の上に類例多き事實にしてその井泉は現時も當社の東二町余りの同じ神名備山の麓に涼涼千古のままに涌き出で出雲風土記、出雲国造神賀詞(往昔出雲國造が朝廷に参向して申上ぐる賀詞)古事記伝、出雲国式考等の古史に記されて著名なり殊に日本書記巻一に記されてある天照大神と素盞鳴尊とが天真名井に八坂瓊之五百箇御統の玉を濯ぎて御誓約なされた中に御生れ給へる天津彦根命が祀られその天津彦根命が当地方に大古住居せる山代直の祖神であり且又天照大神と素盞鳴尊との御父神であらせらる、伊弉諾尊が祀られてあることは誠に深遠なる理の存する所なり
而して中世以來伊弉諾尊の御神徳益々御宏大にわたらせられ遂には社号をも伊弉諾社とも又神魂社(大庭村大庭に御鎮座)と共に両神魂社或は伊弉諾伊弉冊、両大社、又は伊弉諾大社とも称へられたることあり

由緒書



真名井神社

県指定建造物 真名井神社本殿
昭和49年12月27日 指定
 社殿は本殿、中門、拝殿、神楽殿、境内社から成る。本殿は大社造ち檜皮葺きで周囲に透塀をめぐらす。祭神は伊弉諾尊、天津彦根命(山代直の祖) 当社は出雲国風土記にいう「真名井社」延喜式に記す「真名井神社」で古い歴史をもつ意宇六社の一社である。 背後の山は神名樋山で出雲国内四神名樋山の一つで東南麓に真名井の滝を存す。 中〜近世は「伊弉諾社」として知られていたが明治以後は旧号に復し村社に列さられていた。 現本殿は、寛文2年(1662)の軸立で、内殿は正面に向っている。殿内には彩色絵がある。 拝殿は昭和9年に新築された土間床の造り。境内社には末那為神社(向って右)児守神社(向って左)宍道若宮社、山代神社、荒神社が合祀してある。 なお、神紋は二重の亀甲に「有」の字。祭日は10月17日である。
昭和60年3月      
島根県教育委員会 
松江市教育委員会

社頭掲示板



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