八重垣神社
やえがきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】佐久佐神社 出雲国 意宇郡鎮座

   【現社名】八重垣神社
   【住所】島根県松江市佐草町227
       北緯35度25分44秒、東経133度4分25秒
   【祭神】素盞嗚尊 櫛稻田姫命 (合祀)大己貴命 青幡佐久佐日古命
   【例祭】10月20日 例祭
   【社格】旧県社 意宇六社の一社
   【由緒】天平5年(733)2月30日「青幡佐久佐日子命坐」『出雲国風土記』
       仁寿元年(851)9月従五位
       貞観7年(865)10月28日従五位上
       貞観13年(871)11月10日正五位下
       元慶2年(878)3月3日正五位上
       承応2年(1653)佐久佐の社『懐橘談』
       安政6年(1859)造営
       明治初期佐久佐神社と復称
       明治5年郷社
       大正11年9月八重垣神社と改称県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地には佐久佐神社が鎮座していた
        佐久佐神社は移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八重垣神社」と称していた
   【公式HP】 八重垣神社
   【社殿】本殿大社造檜皮葺
       幣殿・拝殿・社務所・会所・収藏庫・随神門

   【境内社】伊勢宮
   【境内図】 境内図

本殿後方に佐草女の森と称する松杉生い茂る丘陵があり、その中に身隠神事の対象となる夫婦杉が立つている。またその傍に鏡の池と称する三坪ばかりの池があつて、良縁を求める男女の神占の場となつている。
神社ではこの一画を奥の院と称しているが、この地が佐草の神を祭る原初の齋場ではなかつたかとも思われる。
八重垣神社とは、もともと大原郡海潮郷の一小社であつたらしく戦国末期この社の地に遷座した。江戸期には八重垣神社が隆盛となり佐久佐神社は衰え小社となって「八重垣神社のわきにあり」という状態であった。
明治初期佐久佐神社と復称したが、大正11年9月、また「八重垣神社」に戻し、それとともに県社に昇格した。


八重垣神社

八重垣神社御由緒
別表神社(神社本庁指定)
特別神社(神社庁指定)
出雲国縁結びの大親神
御祭神
素蓋鳴尊
稲田姫命
御子神
大国主命
青幡佐久佐彦命
(佐草宮司先祖神)
御神徳
縁結びの大神
夫婦和合の大神
家内安全の大神
授児安産の大神
災難除の大神
厄難除の大神
交通安全の大神
悪病退除の大神

八重垣神社説明概要
縁結の御神徳
「早く出雲の八重垣様に、縁の結びが願いたい。」という歌は、出雲においては最も古い民謡の一節で、八岐大蛇退治で、名高い高天原第一の英雄、素蓋鳴尊と国の乙女の花とうたわれた、稲田姫命との結婚物語の神話にゆかりの最も深いのが出雲の縁結びの大神として知られる八重垣神社で、御祭神も素蓋鳴尊と御妃、稲田姫命の御夫婦が御まつりしてあります。大国主命の親神様であります。
素蓋鳴尊が出雲の斐の川上に、こられた時、稲田姫を中に老夫婦(脚摩乳、手摩乳)が泣いておられる様を御覧になって、その理由を御聞きになり、悪者、八岐大蛇を退治して稲田姫を御救いなされたのであります。この時素蓋鳴尊は、稲田姫を斐の川上から、七里を去った佐草の郷、佐久佐女の森(現境内、奥の院、鏡の池のある森、小泉八雲は神秘の森と称しておる)の大杉を中心に八重垣を造って姫を御隠しなされ、八岐大蛇を御退治になつてから、御両親の脚摩乳.手摩乳の御許しを得て、「いざさらば 連れて帰らむ佐草の郷に」という、出雲神楽歌にもある通り佐草の地に宮造りされて「八雲立つ出雲八重垣妻込めに、八重垣造る、その八重垣を」という妻をめとった喜びの歌をうたわれて御夫婦の宮居とされ、縁結びの道をおひらきになったのであります。即ち天つ神(素蓋鳴尊)、地つ神(稲田姫命)の二方が脚摩乳、手摩乳の承諾を得られた、正式結婚の初めの大神で出雲の縁結びの大神として、本家、本元の大祖神様であります。
「わすれしゃんすな八重垣様に、縁を結んだそのはじめ」と、古くから民俗信仰の厚い古社であり名社であります。
奥の院、佐久佐女の森、(神秘の森)
本殿の後方に奥の院、佐久佐女の森がある。そこは稲田姫命が八岐大蛇の難を御避けなさった場所の中心地で、その森の大杉(今は其の跡が保存してある)を中心に周囲に八重垣を造って御避難されたといわれます。八重垣とは、大垣、中垣、万垣、西垣、万定垣、北垣、袖垣、秘弥垣という八つの垣で今も尚その垣の名が山の上や中腹、田の中等に地名が残っております。小泉八雲は神秘の森と称し、知られぬ日本の面影にくわしくのべております。この森は、出雲小唄の「出雲八重垣妻込め所、いとし女の置き所」と歌っています。
鏡の池(縁結占の池)
美容調整の御神徳
出雲八重垣鏡の池に、写す二人の晴姿
この池は稲田姫命が八岐大蛇の難をさけるため、森の大杉を中心に八重垣を造って御避難中日々の飲料水とし、又御姿を御写しなされた池で姿見の池、鏡の池という。稲田姫が美容調整された池で神秘的な池である。こんこんと湧き出る清水は昔ながらの面影をしのばせ、稲田姫命の御霊魂が深く濠透しておるので縁結びの占の池として紙片に硬貨をのせ縁の遅速を占い早く沈めぼ良縁早く、おそく沈むと縁がおそいといわれています。
人の運勢は縁組の善悪によって一大転換をなすものですから御祭神の縁組が御栄えなさったように御神徳の広大な出雲の縁結びの本家、本元の大祖神である八重垣の大神を尊信して、良縁を得られ、二人の晴れ姿を、この神秘の森、鏡の池に写され、末永く御加護を受けて御繁栄されますよう念願いたします。
池や附近の地帯は古代文化埋蔵地帯として国家より指定されています。
夫婦杉
「神の御前で千年を契り、注縄もはなれぬ夫婦杉」
昔稲田姫命がこの森の大杉を中心に八重垣を造って身を御隠しなされたという故事にちなんだ神社随一の古伝祭である身隠祭が五月三日夕闇せまる頃、この夫婦杉に神幸祭が執り行たわれます。
連理玉椿
「出雲八重垣、祈願をこめて、末は連理の玉椿」
連理玉椿(夫婦椿ともいう)は昔稲田姫命が二本の椿の枝を御立てになられた。それが芽を吹き出し一身同体、愛の象徴として神聖視されるようになり、木が枯れても境内には二股の椿が発生すると伝えられ、現在境内に三本の夫婦椿があります。年により二葉の葉も現れることもあります。東京資生堂の花椿会は此の玉椿の名木を神聖視し、発展されておりここにも美容調整の御神徳があります。
壁画
元、本殿内の壁画は寛平5年8月、国庁の御造営の際(宇多天皇)本殿胴板に描かれた壁画で巨勢金岡の筆と伝えられ、古色蒼然、雄潭な筆力は、日本神社建築史上類例のない壁画と推賞され、国家より重要文化財の指定を受け、我国絵画史上最も貴重なものとされています。壁画の板は鉋の無い時代に槍鉋を用いて板を削り、白色塗料は胡粉が支那から伝わらない時代で白土を用いて塗り(名古屋大学で化学分析の結果、白土と決定、白土とは五六万年前、火山灰のケイソードから出来たものとされている。)その白土の上に描かれたもので約1100年前のものである。この壁画は素蓋鳴尊、稲田姫命、天照大神、市杵嶋姫命、脚摩乳命、手摩乳命の六神像が描かれ、類例のない壁画で昭和41年9月御本殿より美術院国宝修理所長西村公朝氏以下技術官数名が来社して修理され安全な宝物収蔵庫に移されたもので専門家、拝観者の絶賛の的となっています。
神社創立と朝廷、国司、藩主の崇敬
神社の創立は遠く太古でありまして、素盞鳴尊が八岐大蛇を御退治後、須賀の里より更に姫命の御避難地であった佐草の現在地に宮造りされ「八雲立つ出雲八重垣、妻込めに、八重垣造る、その八重垣を」との御歌の八重垣をとって八重垣の宮とされ、此処で御夫婦生活を始められた所であり我国の縁結びの大祖神、家庭和楽、子孫繁栄の大神、和歌の祖神とし、又一面災難除け、国家鎮護の守護神として、第六十四代円融天皇の御代には全国に三十の社を選定され三十番神と称して崇敬されました。山陰道では当社と出雲大社の二社で御由緒、御神徳高い神国出雲の名社であります。また御神階も四回昇叙の社は出雲では出雲大社、熊野大社、当社の三社で他に類例のない格別の社で白河天皇、承暦四年六月社司に中祓の儀を命ぜられる等、朝廷の御崇敬社で爾来出雲国司代々神領を寄進され、神主、佐草家以下三十三人の下社家、神宮寺、宮大工、宮そま、宮百姓等数十人奉仕し社頭の宏大、結構、近郷に比類なしと当時の古書「懐橘談」にも記されています。又松平藩主名残りの参拝社も当社と出雲大社、域山稲荷神社の三社で分霊を東京麻布の別邸に奉斎されたことや、吉川広家、富田の月山域に入域され、杵築大社と当社の二社に治国平天下、子孫繁栄の祈願をされ、大社へは銅鳥居、当社へは金覆輸の鞍置いた聡馬の寄進があった等、藩主武将の崇敬が他社と異っていた事が知られます。従って朝廷、国司、藩主、武門武将よりの奉納された御社宝も相当あります。
狛犬 こまいぬ
境内狛犬は製作年代が明らかではありませんが古色蒼然として且つ傑作で、考古学老の嘆称されますもので日本内地にこの種二個現存しているその内の一個といわれております。
石碑二個
木枯や神のみゆきの山の跡 松平雪川公献碑
和歌の跡とふや出雲の八重霞 芭蕉句碑
百穴地帯
神社より東方200m向いの山は百穴地帯と称し考古学者の調査によると二百余りの穴居の跡があり、太古における一大集団地帯で、この地方が太古から中世における民俗、政治、文化の発祥の中心地であったものとされております。

由緒書



八重垣神社

八重垣神社由来記
 早く出雲の八重垣様に縁の結びが願いたい という歌は出雲において最も古い民謡で御祭神も八岐大蛇を退治し、高天原第一の英雄素盞鳴尊と国の乙女の花とうたわれた稲田姫の御夫婦がおまつりしてあります。
 素盞鳴尊が八岐大蛇を御退治になる際斐の川上から七里を離れた佐草女の森(奥の院)が安全な場所であるとしてえらび大杉を中心に八重垣を造って姫をお隠しなさいました そして大蛇を退治して、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」という喜びの歌をうたい両親の許しを得て「いざさらばいざさらば連れて帰らむ佐草の郷に」という出雲神楽歌にもある通りこの佐草の地に宮造りして御夫婦の宮居とされ縁結びの道をひらき掠奪結婚から正式結婚の範を示し出雲の縁結びの大神として、又家庭和合の、子孫繁栄、安産、災難除、和歌の祖神として古来朝廷国司藩主の崇敬が厚く御神徳高い神国出雲の古社であり名社であります。

社頭掲示板



八重垣神社

高天原から出雲の斐の川上に降り立った素盞嗚尊は、老夫婦(脚摩乳、手摩乳)と稲田姫が泣いている様を御覧になられ、八岐大蛇を退治し、稲田姫の命を御救いになったのです。
この時、素盞嗚尊は、斐の川上から七里離れた佐草の郷W佐久佐女の森(奥の院)Wに、大杉を中心に『八重垣』を造り、稲田姫を御隠しになりました。八岐大蛇を御退治になった素盞嗚尊は、ご両親の脚摩乳、手摩乳の御許しを得て夫婦となり、この佐草の地に宮造りされ、御夫婦の宮居とし縁結びの道をおひらきになられたのです。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を」
という妻をめとった喜びの御歌から、『八重垣の宮』となりました。
W天つ神W素盞嗚尊とW地つ神W稲田姫命の御二柱は、この地で結ばれた出雲の縁結びの大親神様で在らせられます。この御二柱を主祭神とした八重垣神社は、古来より朝廷、国司、藩主の崇敬が厚く、御神徳高い神の国出雲の古社・名社として位置づけられております。

公式HP



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