八重垣神社
やえがきじんじゃ


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【由緒】

第三節 縣社八重垣神社(佐久佐神社)
当社は八束郡大庭村大字佐草字八雲床の鎮座であるが、社内に当國の古社佐久佐神社が坐すのであります。元来佐久佐神社は風土記意宇郡の條に、大草郷、郡家南西二里一百廿歩、須佐乎命の御子青幡佐久佐日古命坐す。故れ大草といふとあり、同社號の條に佐久佐社とあるに当り、御祭神は大原郡高麻山の條にも、古老傳に云ふ、神須佐能哀命の御子青幡佐草日古命、是の山上に麻蒔初め給ふ。故に高麻山といふとあつて、佐草とは麻のことと思はれます。而も当社は、文徳實録仁寿元年に出雲国青幡佐草壮丁命に從五位下、三代實録貞観7年に從五位上、同13年に正五位下、元慶2年に正五位上を授け奉った国吏所載の社であり、又承暦4年6月10日神祇官の祓に預らせ給うた神社の内、当国三社の内に数へられた名社であるが、中世以降社号が埋没して了つて、今僅かに当社の相殿に残つてゐる訳であります。しかし当社の御鎮座地は佐草であり、これに奉仕の社家は別火たる佐草氏であり、康暦3年・文安2年・同6年・康正2年等の安国寺文書に佐草社と見え、且つこれに別火が奉仕せしことも見えて居るから、これが八重垣神社に坐すことは明かであります。然らば佐久佐の社号が八重垣と改つたのは何時かといふに、応永元年の古棟札といふ物に、「八重垣御杜二柱大神者、陰陽交泰和歌之鴻基」とあり、文亀3年の神名帳頭注に『佐久佐、稲田姫』とあれば、此等に塵袋または樋河上天淵記などを合せて考へらるると思はれます。 当社は毛利氏の尊信厚く、輝元・元春・元秋及び佐世元嘉・黒川元格等の寄進状や社領内禁制等を伝へ、殊に天正13年毛利氏より能義・神門・大原三郡の棟別銭を以つて造営すべしと命じて居ります。同19年の神領坪付には、神田五十九石九斗五舛と外に器瓦田三石があつたと見えるが、旧記によれば毛利氏の時祭田百八十五石あつたと見え、又佐草百貫の地を当社に附属し、或は八重垣諸神田並に大鋸田を前々の如く安堵のことも見る。而して慶長6年卯月26日堀尾吉晴は佐草の内にて四十二石の神田を寄進し、松平氏は社領高三十石と定めた。就中別火・筒取・藤宮寺の三屋敷に竿不入の特権を与へ、外に宮大工・宮山大工・宮山廻ら・御供田・宮百姓等の屋敷を置いた。又造営も藩費に拠つた。されば同村山代の真名井神社の文書にも、神魂・伊弊諾・八重垣社之儀は、古代より御國内格別之御社に付、杵築・御碕・佐陀都合六ヶ所之分は御元祖様以來出雲六社と御立置きになつて、代々御社参・御代参があり、毎年御祈祷を奉仕する社柄だと云つてあります。從つて藩侯等の参拝報賽頗る多く
神垣や八重立つけふの霞かな 堀尾忠氏
思入るその八重垣の一重だにさゆるばかりのことのはもかな 水無瀬氏成
御一新の際式社號に復して八重垣神社(祭神素盞鳴尊・稻田姫命)を相殿とし、以て郷社に列せられたが、大正11年復た式社号を廃して八重垣神社とし、同年9月20日縣社に列せられた。現境内は、本宮の社域(六六五坪)と奥宮社域(五四二坪)との二区に分れ、老樹の森の内に大社造十四尺四方柿葺の本殿以下幣殿・拝殿・神饌所・社務所・随神門・手水舎・及び伊勢宮・天鏡・脚摩乳・手摩乳・貴布禰・山神等の墳内神社が並び、奥宮境内には鏡池、蓮理椿・夫婦杉など人口に膾炙せるものがあります。

神国島根






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