波太神社
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   【延喜式神名帳】波太神社 和泉国 日根郡鎮座

   【現社名】波太神社
   【住所】大阪府阪南市石田167番地
       北緯34度20分38秒,東経135度14分41秒
   【祭神】角凝命 応神天皇
       明治12年の神社明細帳 角凝命 応神天皇 八田屋代宿禰 武内宿禰
       『泉州志』『和泉名所図会』鳥取氏の祖神角凝命

   【例祭】4月15日 春季例祭
   【社格】旧府社
   【由緒】豊臣秀吉の根來征伐のとき殿堂重宝焼失
       寛永15年(1638)再興
       同42年5月10日新に一社を創立して「鳥取神社」と称した
       『国内神名帳』神階は正四位下
       明治5年(1872)郷社
       昭和3年11月2日府社


   【関係氏族】波太氏 鳥取氏
   【鎮座地】以前は桑畑地区にあった。

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「波太八幡宮」と称していた
   【公式HP】 波太神社
   【社殿】本殿流造千鳥唐破風桧皮葺
       拝殿・社務所

   【境内社】三社神社・山神社・門前社・嚴嶋神社
   【神宮寺】神光寺

波太八幡宮が昔、下荘村貝掛の指出の森にあつて、神功皇后が新羅から凱旋されたとき、務古の水門より紀の国に至ろうとして船を鳥取の玉津浦につながれ、武内宿禰が皇子を懐に入れて海岸に遊ばれたので、その皇子品陀別命をその地で祭つたのが当社の始まり、としている。
山裾に広い境内を持っている。
波太神社本殿、末社三神社本殿は、寛永15年(1638)年の建立で、近世初頭の建造物として当時の優美な建築様式を残しており、ともに国の重要文化財に指定されている。
波太神社本殿には、この地方の豪族であった鳥取氏の祖と伝えられる角凝命を主神とする波太宮と応神天皇を祭る八幡宮の二宮が祭られている。末社三神社本殿は、本殿と同じく三間社流造の建物で、この本殿のすぐ脇にある。本殿前面に建つ拝殿は1935年ごろに再建されたもので、本殿はこの拝殿の奥にあるため、現在ではその全容を望むことはできない。
大阪府条例の指定をうけている「三十六歌仙扁額」も伝えられている。また、拝殿前の石灯籠は、慶長5年(1600)の銘があり、豊臣家重臣の片桐且元が寄進したものといわれている。 



波太神社御由緒略記

当神社は、古来鳥取大宮と称し又は波太八幡宮の社等の称号あり、波太神社は鳥取氏の祖角凝命を主神として相殿に応神天皇を祀り、延喜式内の旧社にして国内神名帳に神階正四位下波太社とあり、鳥取大宮の称は鳥取郷の総社たるを以てなり、御鎮座年代詳かならさるも社伝(妙法院二品尭延親王の撰したるもの)に曰く、和泉國日根郡鳥取郷者天之湯河板挙居地也、湯河板挙為垂仁天皇子誉津別命捕くぐい献之始皇子乃長無言於是発言天皇大悦、即賜姓曰鳥取造事日本書紀湯河板挙社建於波太むら祭祖神角凝命延喜式神明町所謂波太神社是也、古、紀、其他の史書に曰、垂仁天皇の時角凝命三世の孫天湯河板挙、皇子誉津別の為にくぐいを出雲(或は云但馬)に捕えてこれを献ぜしかば天皇其の功を賞して鳥取連の姓を賜ふ云々。時に天湯河板挙一族の居住地たる大字桑畑の奥の宮に祖神角凝命を奉祀す。これ波太神社の起源なり。波太は畑の義にて鎮座地を社名としたるなり。八幡宮は昔神功皇后新羅を征し凱旋のとき偶忍態王反し住吉に屯するとき式内宿禰に命じ皇子を懐きて南海に起かしむ、宿禰御船を鳥取の玉津に繁ぎ皇子を懐にし海辺を逍遥せられし縁により後に其の地に社殿を設け応仁天皇を祀れり。今の下荘村大字貝掛指出森神社是也。
其の年間詳かならねど桑畑むらの波太神社兵火に罹りしを以て郷の耆宿力をあわせ私財をなげうち今の地に社殿を造営し桑畑むらより波太神社を是処に移し指出森神社より応仁天皇の神霊を迎へ相殿に合祀せり、当時神領数箇所ありしも歳月の移り行くままに社運漸く傾き元亀年間に至り最も甚だしく殿堂いたく朽廃せしかば、公方の保護の下に再興し仁和寺宮一品仁助法親王を導師として遷宮式を行えり。天正年間織田信長紀州征伐の時当社をよぎり内陣に入らんとしけるに社殿大に震動し其の目的を達し得ざりきと云う、後豊臣秀吉の根来征伐に際し其の余おうにかかり殿堂社寳一時に灰燼に帰し、昔平重盛熊野詣の時当社に奉納したる大刀を始め其の他の重寳悉く失せたりと云う、其れより慶長年間豊臣秀頼片桐且元を奉行として営繕せしめたるは現在の社殿なり。 されど社領の多くは収公せられ僅かに御供田を社域の一部に遺し以て維新に至る。

社頭掲示板




波太神社

波太神社は、本市石田にあり、平安時代の法典『延喜式(えんぎしき)』に記載されていることから「式内社(しきないしゃ)」として知られています。
 波太神社本殿、末社三神社は、寛永(かんえい)15(1638)年の建立で、近世初頭の建造物として当時の優美な建築様式を残しており、ともに国の重要文化財に指定されています。
 波太神社本殿には、この地方の豪族であった鳥取氏の祖と伝えられる角凝(つのこりの)命(みこと)を主神とする波太宮(はたぐう)と応神天皇を祭る八幡宮(はちまんぐう)の二宮が祭られています。末社三神社は、本殿と同じく三間社流れ造り(さんげんしゃりながれづくり)とよばれる建物で、この本殿のすぐ脇にあります。本殿前面に建つ拝殿は1935年ごろに再建されたもので、本殿はこの拝殿の奥にあるため、現在ではその全容を望むことができません。
 この他、同社には大阪府条例の指定をうけている「三十六歌仙扁額」も伝えられています。また、拝殿前の石灯ろうは、慶長(けいちょう)5年(1600)の銘があり、豊臣家重臣の片桐且元(かつもと)が寄進したものといわれています。

社頭掲示板



波太神社

以前はこの地の南にある桑畑地区に祀られていたという伝説があり、神社名はその桑畑の「畑」から転じたものであると言われています。明確な創建の年代は分かりませんが「延喜式」という当時の政治に関する規則を記した書物に波太神社の記載が見られることから、延喜年間(10世紀初め)には既に創建されていたようです。
その後、戦国時代の天正5年(1577)には織田信長が紀州勢を攻めたときその本陣がここにおかれたという記載が「信長公記」に見られます。
祭神はこの地方の豪族であった鳥取氏の祖神と言われている角凝命と八幡神です。本殿は三間社流造千鳥破風というつくりです。また、ここには大阪府指定有形文化財である三十六歌仙扇額が所蔵されています。これは江戸時代に宮廷絵師であった土佐光成の作によるもので元禄末頃(1700前後)の作品であると考えられています。
本殿の前にある石灯籠は、慶長5年(1600)の銘があり、豊臣家の重臣片桐旦元が寄進したものと伝えられています。

社頭掲示板



郷社 波太神社

祭神 角凝命 品陀別命
垂仁天皇の御宇、天湯河板挙の創祀する処なり、角凝命は天湯河板挙の祖なり。日本紀に「垂仁天皇詔天湯河板挙献鵠、則賜姓曰鳥取連、」と見え、此村鳥取連の住めりし処なればやがて共名を負ひしなるべし、醍醐天皇延喜の制、式の小社に列る(延喜式)、品陀別命は、旧と指出森に鎮座ありき、昔神功皇后、新羅を征してかへりたまひし時、御船を紀国鳥取玉津に留めたまひ、武内宿根、皇子を懐きまつりて濱に遊びきと、故を以て後人其地に社を建てて祀りしなり、北朝後円融帝永徳2年、其社兵火にかかりて焼亡す、因りて当郷の有志相はかりて財を出し、勝地を選ぎて波多神社に合祀す、明治6年郷社に定る、御鏡を御神体とす、境内1758坪(官有地第一種)社殿は、本殿、拝殿其他神饌所、宝蔵、神楽所、舞台、神輿庫、社務所、参籠所等の建物を備へ、境地は後に山を負ひ、前は茅沼海に臨み淡路の翠黛を眺め、又一谷の旧跡を指点し風致甚だ賞すべし、宝物には雲竜額一面、後西院天皇御宸翰の軸其他なほ多し。

明治神社誌料



波太神社

波太は假字也〇祭神分明ならず、(社説に角凝命と云)○鳥取郷石田村に在す、(和泉志、式社考、)○当國和泉郡にも同社あり
類社
大和國高市郡波多神社の條見合すべし
神位
國内神名帳云、正四位下披太社、

神社覈録



波太神社 本殿 末社三神社本殿

波太神社は神社形式からいうと「三間社流れ造り」といわれるものです。拝殿奥の正面に本殿があり、向かつて左側奥に末社三神社があります。
本殿は両脇に階段があり、その上部は普段は幕で覆わごれています。この幕の奥は3つの間に仕切られていて、両脇の間が神座となつています。中央に設けられているのは「相の間」で、2柱の神を合わせて祀る場合その間に設ける間のことです。このように3つの間が設けられているものを「三間社」といいます。
「流れ造り」というのは屋根の形式のことで、屋根の流れが後ろに比べて、前を長く延ばして反りを付けたもののことです。その長い庇は様々な組木や柱、彫刻を施した虹型の梁などで支えられています。また、側面にも非常に手の込んだ飾りが見られ、建築当初の極彩色の豪華さが今も忍ばれます。
なお本殿は寛永15(1638)年に建てられたことが、棟木に打ち付けられた木札に記されています。
末社三神社は小型の「三間社流れ造り」です。細かい造りなとは本殿とよく似ているため、本殿と同じ時期に建でられたものと考えられます。
江戸時代初期の特徴がよく残されていること、本殿とそろっていることなどから1993(平成5年)12月9日に国の重要文化財に指定されました。
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