山頂の広大な神社。新興住宅地に囲まれつつあるが元は深奥な山中に鎮座している。 この付近一帯は「信太の森」と呼ばれていた。 主神の聖神は、「日知り」の神、暦の神と見なされ、江戸時代には等社の氏子舞町の人達が暦製造の特権を許され、あるいは祭礼に際して舞を奉納していた。 「日知り」の神は半島系渡来氏族の陰陽師が信仰していた神である。 陰陽博士として名高い安倍晴明の誕生に絡んだ伝説が伝えられている。 萬松寺という宮寺があつて社僧が奉仕していたが、明治維新後の神仏分離で廃寺となった。 |
由緒 当社の創建は白鳳3年秋8月15日で、永く国家鎮護の神として、信太首が斎き祀ったものであり、信太聖神、又は信太明神とも云う。 霊亀2年河内国を分けて、和泉の国を置かれた時、和泉五社大明神の内第三位に列っせられた。 天平4年の大旱に際し、当国五社を始め、井の八幡宮に奉幣があって、降雨を祈願された時に、当社に領地若干を寄せられた。 貞観元年5月7日官社に列し、8月丙申従四位下をけられた。 昌泰元年宇多上皇の御幸があり、御衣を納められた時、菅原道真公が供奉されたと伝えられている。 延喜の制、祈年祭に鍬一口を加え奉られ、後年後白河法皇御宸筆の額一面を奉納された。 慶長9年右大臣豊臣秀頼公が、片桐旦元を普請奉行として、本殿を造営され、壮大な権現造りで、構造精徴を極めた。大正13年4月特別保護建造物(国宝)に指定された。昭和9年9月の第一次室戸台風に大被害を受け、昭和12年2月より約11ケ月を以って大修理を完了して、現在に至っている。(現在は重要文化財) 境内は往古777、600坪で、旧信太山台地を有した。 又明治維新前まで、萬松院大蔵寺等の宮寺があり、五重塔、鐘堂等があったが、神仏分離の際に、寺は廃寺となった。 文明15年2月28日の銘のある、重要美術品に指定された神輿がある。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
聖神社 当神社は延喜式内の旧社てあつて聖神を祭る。 社は信太明神とも呼び、今から約1300年前白鳳3年(西暦675年)8月15日天武天皇の勅願により、国家鎮護の神として創建。 和泉国五社のうち三の宮に位し皇族武家の信仰があつく、殊に後白河法皇の崇敬があつく、その奉納されたと伝える勅額が社宝として残っている。 安産、子宝の神、又長寿の守護神として知られ参詣者の多い神社である。 本殿は慶長九年(西暦1604年)兵火に失われたのを豊臣秀頼が再建したもので桃山時代の特質を示す雄渾精緻な建築美を誇っている。 なお本殿建造物は紹和13年改体大修理され現在重要文化財に指定されている。 和泉市 社頭掲示板 |
聖神社 聖神社は信太明神とも称し、信太山丘陵地(約百萬坪)旧陸軍演習場現自衛隊演習地、火葬場 鶴山台団地等を含む土地が境内であった。 天武天皇(680年)白鳳3年秋8月15日、勅願により、信太首をして聖神を斎き祀らしめ給うと伝う。 さきに述たる如く、境内七十七万七千六百坪(当時の一間九尺)内に萬松院、大蔵寺の別当寺もあり、由緒ある神社なるも、史料焼滅の為祭神も詳らかならずして、明治5年以来社格郷社として、昭和12年下旬、祭神の決定をみる。 又大正13年4月15日、国宝の指定がありました。和泉国三の宮(一宮・大鳥、二宮・穴師、四宮・積川、五宮・日根)。 当初の建造物は、戦国時代の兵火により焼失せるものと考えられ、現在のものは、慶長九年、右大臣豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として本殿を造営せしめたものである。 天平4年(732年)聖武天皇、大旱に際して、東国五大社、井八幡宮(泉井上)に奉幣ありて、降雨の祈願せしめ給う。その時、若干領地寄せらる。 貞観元年(859年)5月7日官社に列し、8月丙申従四位下を授けらる。 昌泰元年(898年)宇多上皇の御幸あり、御衣を納め給う。その時、菅原道真供奉す。 延喜の制、祈年祭に鍬一口を加えられる。 後白河法皇、御辰筆の御額一面奉納せらる。現在も社宝として存す。 (小栗街道一ノ鳥居にある時、助松の漁師が漁の時、御光の為まぶしくて漁が出来ぬとて降ろしたと伝えらる。) 後村上天皇の御代、社領の御寄進あり。 天正五年(1577年)内大臣織田信長、社領一千百石の朱印地を寄進。 ○的伝説 阿部保名信仰の由来は当社とす 由緒書 |
信太の森の鏡池と葛の葉伝説 聖神社境内北側に鏡池があり、安倍保名が白狐を助けた場所で、狐が水面に姿を映したことから、鏡池とよばれると伝えている。白狐の化身である葛の葉姫の子別れの舞台であるといわれ、「葛の葉伝説」のなかで重要な位置を占めている池である。和泉市史跡に指定され、史跡公園として整備されている。 今は、葛ノ葉稲荷神社(信太の森神社)の縁起となっているが下記の伝説がある。 伝説 昔、摂津の国住吉の里に、阿倍保名(やすな)という人があった。妻は葛葉姫(くずはのひめ)といったが身体が弱く、たびたび里に帰って養生していた。保名は日夜心を悩まし、神の助けによって一日も早く妻の全快と俊児を授けられんことを、当時最も信仰者の多かった信太明神(聖神杜)に祈願し、三十七日間おこもりをし、白玉を得、斉戒沐浴して池の堤に立っていた。すると水面に白狐がうつり、不思議に思って後ろを見ると一匹のねずみ(実は傷ついた白狐)が走ってきたので、このねずみを袖にかくまい、しばらくして山中に逃がしてやった(聖神杜境内には、この伝承に由来するねずみ坂と鏡池−現在は神杜の所有ではない−が残っている)。 保名は満願の夜、疲れて社殿でいねむりをしていると、冠をかぶった白髪の老人が夢にあらわれて、「汝の日頃の信仰はほとんど寝食を忘れるほど誠意であり、願いは必ず成就する。妻の病気は全快し、俊児も近々賜るる、すこと憂うることはない」とお告げがあつた。保名は神心肝に銘じ、なおも深く祈願をこめて家に帰ったが、翌日の夕方に妻は元気な様子で帰ってきた。保名は本当に信太大明神のお告げどおりだと、たいへん喜んで妻を迎えた。それからというものは楽しく日力を過ごし、妻はまもなく懐妊し・月満ちて男児が生まれた。夫婦の喜びはひとしおで、掌中の珠として愛育した。 百余日を経たある夜、家中が光り輝き、驚いて眺めていると、妻は白狐神となって「我こそは信太大明神と議(はか)り仮に汝の妻となり願いの如く俊児を授けたる。今は神のおぼしめし告げる時が来て帰らねばならない。大切に育てるべし」と告げるやいなやいずこかへ消え失せた。保名はありがたさにむせぶうちに夜が明け、雨戸を開いて障子を見ると、文字が書き付けてあった。これが世に知られる「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の和歌である。その後、本当の妻も病気が治り帰つて来て、二人でその子を大切に育てた。この子が非凡の天機を発揮し、成長ののちには陰陽博士として天下にその名を知られた安倍晴明であるという。 |
聖神社 聖神社は白鳳3年(674年)天武天皇の勅願によって信太首が創建したと伝えられ、以降延喜式内社、和泉国五社明神の三の宮に列し、「信太明神」の別称でも人々に親しまれている。祭神は素戔鳴尊の孫神「聖大神」を主祭神とし、天照大御神他四柱の神々を配祀している。かつての境内地は信太山丘陵の大半約百万坪を有していた。境内には国指定重要文化財である慶長9年(1604年)再建の聖神社本殿をはじめ、末社の三神社本殿、瀧神社本殿があり、末社平岡神社本殿は大阪府有形文化財に指定されている。 国指定重要文化財 聖神社本殿(昭和25年8月29日指定定) 豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建し、屋根は檜皮葺、桁行三間、梁間三間の三間社入母屋造という神社建築様式で、桃山文化の粋を集めた極彩色の装飾が施された壮麗な社殿である。 末社三神社本殿(昭和52年1月28日指定) 三間社春日造とよばれる全国的にも珍しい建築様式で、屋根は桧皮葺、正面三間、身舎側画二間の前面に一間造りの庇を設け、極彩色が施されている、元は東南部の神護寺「奥の院」に鎮座していたが、明治6年に現在地へ遷座した。 末社瀧神社本殿(昭和52年1月28日指定) 三神社の北側に隣接、鎮座する社殿で、屋根は檜皮葺、正面一間、身舎側面一間閥の一間社春日造である。 平成19年3月31日 和泉市教育委員会 社頭掲示板 |