宝亀7年(776)粟直氏が当地に在住し、粟氏の祖神天太玉命を祀ったのが創始である。 粟とは「安房」と同音で、安房国に鎮座する官幣大社「安房神社」と同じ神の「太玉命」を祀っている。 和泉郡宇多大津村粟戸(のちの泉大津市式内町)にあつたが、明治41年4月29日、大津神社に合祀された。 粟神社本殿は現在本社覆屋内に納められている。泉大津市有形文化財。 |
粟神社本殿 一間社春日造、檜皮葺、二軒繁垂木 摂社粟神社はもと宇多大津粟戸にあった式内社で、明治新政府の合祀令により明治41年4月に大津神社境内の現地に移転した。現在覆屋内に納められている。泉大津市有形文化財。 建立年代は不明であるが、室町時代後期と考えられ、桃山時代(慶長頃)に改修、さらに江戸時代(元禄頃)に主として向拝部分を改修している。 身舎は、円柱に上下長押、頭貫を通し先端を木鼻とする。柱間は正面のみ格子戸両開で、他は横板嵌殺である。組物は出三斗とし、中備は四周に蟇股を置く。 その内部の梅に鶯、牡丹、椿、楓、松などの彫刻や、それぞれ形を変えた蟇股上の実肘木などには桃山時代の作風が窺える。 向拝は浜床上に几帳面取角柱(江戸中期取替)を立て、昇高欄(江戸末期取替)を付けた五級の木階を掘える。向拝は後世の改修が多く、向拝虹梁とその木鼻(象鼻形)や身舎と向拝を繋ぐ海老虹梁も身舎背面の虹梁とともに江戸中期の改修によるものである。 しかし角柱上の連三斗の組物は大斗と巻斗の背が高く古風で室町後期まで遡れる可能怯があり、実肘木や中備の蟇股も身舎と同じく桃山時代の様式をもっている。 粟神社本殿は、本社本殿瑞垣内に有り、禁足地となっておりますので、一般には拝殿から拝観していただくことになります。 (覆屋内に納められている為、細部はほとんど見えません。御了承下さい。) |
粟神社 粟神社(粟堂又は粟宮) 祭神天太玉命 由緒 宝亀7年(776年)粟直氏当地に在住、粟氏の祖神天太玉命を祀ったのが即ち粟神社である。 延喜式 式内社和泉国和泉郡二十八社の一である。 昭和43年、明治百年記念事業の一として粟宮御社(極彩色)の破損を防ぐため鞘堂におさめられた。 大津神社由緒書 |
大津神社 大津神社について 大津神社鎮座の起源は「小津の泊まり」に祀られた小祠であったといわれます。 その後鎌倉時代に八幡大神を勧請し、以来「若宮八幡宮」と称していましたが、明治41年に、 宇多神社、神明神社、菅原神社の 三社を合祀し、事代主神社を境内社として合併し、式内粟宮を 境内に移築した際に、「大津」の総鎮守として、「大津神社」と改称されました。 大津の由来 「大津(おおつ)」はもともとは 「小津(おづ)」と呼ばれていたようです。 「小津」は、国津・国府津から転じたものといわれ、 和泉国の国府の外港という意味です。 小津の港は、古くから畿内地方における良港として広く知られていたようで、『土佐日記』に、 「五日。けふ、からくして、いづみのなだよりをづのとまりをおふ。まつばら、めもはるばるなり。これかれ、くるしければよめるうた、 ゆけどなほゆきやられぬはいもがうむ をづのうらなるきしのまつばら」 と書かれてあり、また、『更級日記』には、 「冬なりて上がるに、大津といふ浦に、舟に乗りたるに、その夜雨風、岩もうごく許降りふゞきて、神さへなりてとゞろくに、浪のたちくるをとなひ、 風のふきまどひたるさま、恐ろしげなること、命かぎりつと思(ひ)まどはる。岡の上に舟をひき上げて夜をあかす。 雨はやみたれど、風猶ふきて舟出ださず。 ゆくもなき岡の上に、五六日と過ぐす。 からうじて風いさゝかやみたるほど、舟のすだれまき上げて見わたせば、夕汐たゞみちにみち來るさま、とりもあへず、 入江の鶴の、こおしまぬもおかしく見ゆ。 くにの人びと集まり來て、「その夜この浦をいでさせ給(ひ)て、石津に着かせ給へらましかば、やがてこの御舟名殘なく なりなまし」などいふ。心細う聞ゆ。」 とあります。 土佐日記は承平5年(935)に書かれたもので、この頃までに、「小津」という地名は存在しており、それより約120年後、康平2年(1059)頃、 更級日記が書かれた頃には、すでに「大津」と呼ばれていたことがわかります。 その後、明治22年(1889)町村制により、泉郡(のち泉北郡)大津村となり、 大正4年(1915)に町制を施行し大津町となりました。 また昭和17年(1942)の市制施行では、既に滋賀県に大津市があったために、大津の上に泉州の 「泉」をつけて泉大津市となりました。 このように、大津の名称は変わることなく伝えられてきたのです。 式内粟宮の由緒 『続日本紀巻三十四』に、 「寶龜七年六月甲子。近衛大初位下粟人道足等十人賜姓粟直。」 とあります。 粟氏は忌部(斎部)氏の一族で、四国の「阿波」、千葉の「安房」など太平洋沿岸に勢力を誇っていました。 この粟氏の一派、粟直の人々が、大津に来住して忌部(斎部)氏一統の祖神、天太玉命をまつったものが即ち、粟神社です。 天太玉命は、天照大神が天岩戸におこもりになったときに、岩戸の前で太占(ふとまに)と呼ばれる卜占をし、大きな勾玉を連ねた玉飾り、大きな鏡、楮(こうぞ)で織った白和幣(しらにぎて)と麻で織った青和幣(あおにぎて)を下げ垂らした真榊を捧げ持って大神の出現を願ったと伝わります。 爾来、占いの神、祭具の神として敬われてきました。 『延喜式巻第九』に、 「和泉國六二座 和泉郡廿八座(並小) 粟神社」 とあります。 粟神社はその昔、地方一円の鎮守として栄え、また式内社として広く崇敬を集めていたといいます。 しかし、明治の初め頃には境内地も縮小して後にはわずかに一小祠があるだけとなり、明治新政府により明治41年4月に大津神社に合祀。社殿は境内の現地に移築されました。 大津神社公式HP |
粟神社 粟は阿波と訓べし、和名鈔、(稲穀部)粟、(假字上の如し)○祭神粟直祖神歟、(考証云、天太王命、)○下條郷大津村に在す、今粟堂と称す、(和泉志、式社考、) 類社 山城國綴喜郡粟神社の條見合すべし 神位 國内神名帳云、正五位下粟社、 氏人 続日本紀、宝亀7年6月甲子、近衛大初位下粟人道足等十人賜姓粟直、 神社覈録 |