街中の平地に鎮座している。 穴師は風の名で、亦中臣祓義解に「戌亥は風神の座す所なり」とある。大和の穴師神社と区別のため和泉をつけたという。 創建年月は未詳である。伝承では神武天皇東征の際に奉齋とか、神功皇后凱旋の折に始まるとか、あるいは天武天皇の白鳳元年と伝えるが確証はない。 |
由緒 当神社は、式内社で和泉五社の一、泉州二の宮であります。穴師の里、千古の神境に神殿奥深く鎮まります。主祭神は、 農業の神であらせる 天忍穂耳尊 紡織の神であらせる 栲幡千々姫命 の御夫婦二柱の神であり、天忍穂耳尊は天照大神の御子神で皇室の御祖神の系列にあらせられ、栲幡千々姫命は御名の通り、栲は古い衣服の原料となる麻・絹・綿等一切の繊維類の総称であり、幡は「繪」「服」の字に相当し、布帛の総称で、はたものは、織機の意味で衣服の紡織に種々工夫改良を加えられた姫神様であらせられ、泉州の地が今日農耕並に紡織を以って繁栄して居りますのも洵に御神徳のいたすところであります。 衣食の安定は政治の中心でありますので、往古より歴代の天皇の当社に対する御崇敬は、文献に数々残されて居りまして枚挙にいとまありません。 又、古来より、幼児虫封じに霊験あらたかと云われ、参拝者多数ございます。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
泉穴師神社由緒 御祭神 天忍穂耳尊 拷幡千々姫命 御鎮座 天武天皇 白鳳年間(約1300年前) 大阪府泉大津市豊中700番地 御大祭 4月5日 春季大祭 10月10日 秋季大祭 1月1日 歳且祭 1月10日 戎祭 7月15五日 夏宮祭 11月3日 拷幡祭 12月15日 冬宮祭 御由緒 当神社は、式内社で和泉五社の一、泉州二の宮であります。 穴師の里、千古の神境に神殿奥深く鎮ります。主祭神は、農業の神であらせらる天忍穂耳尊紡織の神であらせらる拷幡千々姫命の御夫婦二柱の神であり、天忍穂耳尊は天照大神の御子神で皇室の御祖神の系列にあらせられ、拷幡千々姫命は御名の通り、拷は古い昔衣服の原料となる麻・絹・綿等一切の繊維類の総称であり、幡は「繕」「服」の字に相当し、布帛の総称で、繕具(はたもの)は、織機の意味で衣服の紡織に種々工夫改良を加へられた姫神様であらせられ、泉州の地が今日農耕並に紡織を以って繁栄して居りますのも洵に御神徳のいたすところであります。 衣食の安定は政治の中心でありますので、往古より歴代の天皇の当社に対する御崇敬は、文献に数々残されて居りまして枚挙にいとまありません。 又、古来より、幼児虫封じに霊験あらたかと云はれ、参拝者多数ございます。 御倫並に奉献の一班 孝謙天皇(天平勝宝年中)村上天皇(天暦中)崇徳天皇(大治中)の御宇鎮疫祈願御叡感の綸旨を賜はって居りますし、正倉院文書によりますと聖武天皇が和泉国五社大明神に社領御下賜の際、当社には大鳥神社と共に千三百石を下賜されました。 武家の方の一班をあげますと、天正3年10月20日将軍織田信長公より社領安堵の御朱印状を給はって居ります。 文に 当国五社大明神領事如近年有来可有社納之次山林竹木等一切不可伐採候也祁状如件 天正三年十月二十日 信長朱印 泉州五社へ 元弘元年摂河泉の守楠正成公兵を挙ぐるに当り、国家安寧武運長久を祈り当社に石燈籠一基を奉献して居りまして、現に本殿広前に建って居り、其の形まことに古雅であります。 御社殿並に建造物 本殿は、慶長7年豊臣秀頼公が片桐東市正且元に命じ大修築されたもので、棟札に権大納言豊臣秀頼公片桐東市正且元 花押 子時慶長七年壬寅十月 如意珠日 奉行藤林与左衛門尉定吉 花押 大工次郎左衛門とあり 流造正面千鳥破風付のものを二殿連続したもので、一名比翼造とも云い、細部の手法よく桃山時代の特徴を現し、貴重な文化財として国の重要文化財に指定されております。 又社殿内には御神像83体を蔵し、内8体は重要文化財に指定されております。このように多数の御神像が腐朽せず現存していますことは、全国でも比類なく珍重されております。 摂社春日社 一間社入母屋造檜皮葺 御祭神 天富貴命 古佐麻槌命 この社殿も桃山時代の特徴をよく具現したもので、重要文化財に指定されております。 摂社 住吉社 一間社入母屋造檜皮葺 御祭神 表筒男命 中筒男命 底筒男命 息長定姫命 この社殿は室町時代の特徴をよく現わし、同じく重要文化財に指定されております。 合杞殿 向破風造 真橡付 檜皮葺 御祭神 菅原大神他七座 この社殿は明治四十一年勅令により、板原村社、菅原神社を社殿共に移転し、虫取村社、八坂神社を初め、近在の神社を合祀したものであります。 戎社 流造 銅板葺 祭神 事代主大神 御神事 春季大祭 聖武天皇天平3年辛未春勅して曰く「国内悪疫流行す、此に敢て蒼生途炭の苦に陥り震憂に堪へず依って国家安全鎮疫のため弊帛を献り大祓を執行すべし」と例に習ひ爾後毎年2月4日大祓を執行して参りましたが、明治維新の後、祈年祭と改称し古例にならひ氏子一統拝殿に集り大祓の詞を同音に奏し、終って一同に盛相飯を賜ります。 昭和21年より4月5日に改め、春季大祭として稚児参拝、餅まき神事、奉納演芸等の神振行事を行っております。 秋季大祭 (飯の山神事)聖武天皇天平14年壬午6月京中大いに飯を降らし、又霊夢により、橘諸兄公に詔して飯の山饗を総社(在府中、和泉五社総社)に渡し五社に供し余を窮民に賑恤せしめられました後、例にならひ天正年間まで毎年8月15日総社五社会幸飯の山を渡すの神事を執行して参りましたが、其の後当社のみは古例にならひ社前馬場先の南端に渡御所を設け今に至る迄、当日神興渡御飯の山御饌鉾を渡すの神事を執行いたして居ります。明治10年より新暦と対照し、10月1日に改め大正10年より近郷他社との申合せにより10月5日とし、秋季例祭と称して居ります。 「飯の山」とは、白米一斗八升・餅米五升合せて二斗三升を蒸飯とし、盤に盛り、御饅鉾と称する地車台にのせ神興に供奉いたします。撤饌後之を一夜に醸酒に醸し、氏子各戸に頒けて往昔窮民賑恤の恩賜を記念すると共に、御食津神の恩を被らしめ給う古式の儀を含めたものであります。 拷幡祭 古老の伝へるところによりますと、往古より明治の初期まで、当社の特殊神事といたしまして、毎年旧正月4日には「仕初」と称して氏子一同参集し「はた」を織り以て拷幡千々姫命の神慮をなぐさめ併せて紡織の弥栄を祈念して参ったと申します。 尚、現在11月3日を拷幡祭と定め、繊維関係業者の弥栄を祈念して居ります。 由緒書 |
泉穴師神社 いずみあなしじんじや 大阪府泉大津市豊中町。旧府社。祭神天忍穂耳尊・栲幡千々姫命。当地方の古社として府社となっていた。天平9年(737)に神戸穎稲三九三〇余束を以って祭祀料に充てられ(『正倉院文書』)、また『続日本後紀』によると、承和9年(842)10月従五位下、その後『三代実録』に貞観7年(865)春2月従五位上、同年6月正五位下、同9年(867)春2月従四位下と累進したことが記録されている。『延喜式神名帳』に登載され、『延喜玄蕃式』に、新羅使に賜う神酒を醸す新稲を供出する神社の一社として指定をうけている。本殿(流造八坪)正面千鳥破風が二棟付く構造となっており桃山時代の遣構をよく伝えているという事から重文に指定され、同じく本殿に隣接する末社二社(春日造)も重文となっており、また殿内に収められている神像83体のうち、8体は重文、残り75体は大阪府文化財に指定されている。 神社辞典 |
府杜泉穴師神社 祭神 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 拷幡干々姫命 当社の祭神は諸説紛々として一定せす、神祇宝典によれは兵主神なりといひ、和泉志には風神級長津彦、級長津姫とし、神社覈録は穴師神主祖神なるべしといへり、而して更に姓氏録に見るに、穴師神主は天富貴命五世孫古佐麻豆知命より出てたり、猶神祇志料には和久産巣日命を祀るとせり創祀年代詳ならす、聖武天皇大平3年春勅して疫病の流行を防ぎ、國家安全の為に幣帛を奉り、大祓を執行すへき旨を命し給ふ、之より毎年2月4日大祓を行ふ、此日郷民参集して大祓詞を奉する例なり、此時盛相飯を供すと、天平4年夏大に旱す、依て官幣を和泉国五社に奉り雨を祈り給ふ、当社も之に預る(社記)、天平9年神戸穎稻三千九百三十余束を以て祭神料に充て奉る(東大村正倉院文書)、同14年6月京洛大に飯を降らす、又霊夢によりて橘諸兄公をして飯山五饗を総社に渡し、五社に供へ、剰余を窮民に給す、此時勅額を授け給ふ、正一位穴師大明神の字あり是より例年五社會合して8月15日を期して飯山を渡す神事あり、孝謙天皇天平勝宝年中勅祷の証文を下し給ふ(社記)、仁明天皇承和元年10月無位より從五位下を授けらる、是より先4月4日の御トに來年春夏の交疫気あるへし、宜しく予塵を加ふべしとありたればなり(続日本後紀、清和天皇貞観7年2月從五位上に進められ、同年6月正五位下を賜ひ、10年2月從四位下を授け奉る三代実録、醍醐天皇延喜の制二座並に小杜に預る、和泉郡二十八座中なり(延喜式)。村上天皇天暦年中勅祷の記文を下し給ふ、崇徳天皇大治元年亦勅祷あり証文を下し給ふ(社記)、其後諸社に一階を加へ給ふ毎に一階を授けられ、遂に極位に昇り給ふ、正親町天皇天正年間五写曾合飯山渡しの儀廃せられ、当社にては本社の南三町の所に在り末社天神社に神幸あり、飯山渡しの儀あり、之に要する米一斗八升餅米五升を蒸飯にして供し、撤後甘酒として氏子一同に分つ、口碑によれば社領千三百石あり、織田信長の時まで存せしを、豊臣秀吉没収す(式社考)、豊距秀頼に至り社殿の頽廃を憂ひ、後陽成天皇慶長7年片桐東市正且元をして修補せしむ、其棟札今に存せり、往時神宮寺として不動院、文珠院、地蔵院、宗智院、泉徳院、愛染院の六坊、及び築師堂、多宝塔、五重宝塔、経藏等結構頗る華麗を極めしといふ、就中薬師堂は維新まで存せり、明治に至りて2月4日の、大祓を祈年祭と改め、同5年旧社領を奉還し、同6年3月郷社に列し、其後府社に定る、境内1329坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿、其他神輿庫、旧神領所、社務所を備へ、鬱乎たる深林社の後を還り、森然として清気あり、社前に反橋あり、又一基の石灯籠あり、文宇磨滅して読み得べからすと雖、形古雅にして千余年前のものと知らる、所藏の宝物には聖武天皇勅額一面、綸旨三通一巻、棟札二枚ありと云ふ。 明治神社誌料 |
泉穴師神社二座 泉は以都美、』穴師は阿奈志と訓べし、〇祭神穴師神主祖神歟、(社家説に、忍穂耳尊、栲幡干々姫命といふ、今從はず、)○下條郷宮村(旧名穴師村)に在す、(泉州志、和泉志、)○今俗当國五社の第二宮と称す、(式社考)○永萬記云、阿那師社、○式廿一、(玄蕃)凡新羅客入朝者給神酒、其醸酒料稻、和泉國安那志一社、三十束、送住道社、(全文大和国葛上郡高鴨社の條見合すべし)〇姓氏録、(和泉國神別)穴師神主、天富貴命五世孫古佐麻豆知命之後也、 泉州志云、余按、穴師風名、八雲御抄云、穴師戊亥也、中臣祓義解云、戊亥風神所坐、拠以上説此地風神所坐、故名穴師云々、』又按、穴師風神級長津彦、級長津姫也、倭有穴師神、故在当國曰泉穴師、(和泉志、既脱に従うて風神とす、)式社考云、此説非なり、延喜式新羅客入朝すれば神酒を奉るの由緒、大和國穴師神社に対して泉穴師と記されたるもの也、(此文其通えがたし)若大和國によらば、本社は大己貴命也、当社また穴師社に地神第二を合祀して、穴師明神と號し奉る、」とこれまた僻説なるべし、連胤按るに、穴師は元より地名なれど、大和國穴師とは格別にて、日本霊異記(常鳥卵煮食以現得悪死報縁第十)に、和泉國和泉郡下痛脚村、とある地也、さて八雲御鈔(天象部)に、あなし、(乾也)とあるはただ風の名をいふ也、(同じ條にをしやな巽風)とあるに等し、是によりて爰も大和も、穴師は風神といふべけむや、大和なるは兵主神なる事明か也、当社はかならず穴師神主の氏社にてぞあるべき、泉州志、式社考共に、大和の穴師に附曾したるは誤り也、こは同名異称なるが放に、分ヶて泉穴師神社と記したる事疑ふべくもあらざるをや、 類社 伊勢國多気郡穴師神社、伊賀國阿拝郡穴石神社、若狭國遠敷郡阿奈志神社、 連胤按るに、各國祭神詳ならず、猶考ふべし、 神位 続日本後紀、承和9年10月己巳、奉授和泉國無位穴師神從五位下、」三代實録、貞観7年2月27日己卯、和泉國從五位下泉穴師神授從五位上、同年6月庚戌朔、授和泉國從五位上泉穴師神正五位下、同10年2月21日乙酉、授和泉國正五位下穴師神從四位下、○國内神名帳云、正一位穴師社前、 神戸 神領 東大寺正倉所蔵和泉監天平9年正税帳云、穴師神戸税、天平8年定頴稻参仟陸百伍拾漆束玖把捌分〇式社考云、信長公御判物神領千二百石、秀吉公没収、 神社覈録 |