日部神社
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   【延喜式神名帳】日部神社 和泉国 大鳥郡鎮座

   【現社名】日部神社
   【住所】大阪府堺市西区草部262番地
       北緯34度31分15秒,東経135度27分56秒
   【祭神】神武天皇 彦坐命 道臣命 (合祀)素盞嗚尊 伊弉冉尊 菅原道真
       『和泉国式内社目六稿』「所祭日下部氏祖神日子今売命」
       明治十二年『神社明細帳』日臣命
       『大阪府誌』彦坐命
       『大阪府全志』日臣命
       『大阪府史蹟名勝天然記念物』彦坐命

       本来の主神は「彦坐命」であろう

   【例祭】10月5日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】明治5年(1872)村社
       同44年10月現社地へ遷座

   【関係氏族】日下部氏
   【鎮座地】旧地は南300mで道臣命のものという古墳(御山古墳)がある
        明治44年10月13日現在地の「寺山」に遷座

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿単層入母屋造本瓦葺
       拝殿・社務所・神門・手水舎

   【境内社】
   【神宮寺】阿彌陀山行興寺、当社の北側に境内・参道を隣接して現存している

日下部氏の祖彦座命を祀る古社である。由緒不詳であるが、当社が「輪の内」より現在地の「寺山」に遷座されたのは明治44年10月13日とされている。当神社は神武天皇御東征の砌上陸された日下の蓼津は此の地なりと古事記伝に記されている。
明治時代に鶴田村大字草部字輪之内にあった日部神社、同字寺山の八坂神社、大字原田の熊野神社、大字上の菅原神社を合祀したもので、社名と主祭神は式内社である旧日部神社のものを採用している。
当社の南約500m、住宅に囲まれたなかに、旧鎮座地といわれる御山古墳の一部(墳形不明・円墳か)が残っている。遷座後旧地は大正初年に民間へ売却されたため著しく変貌をとげ、現在では住宅地となっている。
現在地はもと八坂神社の鎮座地で、合祀の時本殿および神門は八坂神社のものをそのまま残し、拝殿は旧菅原神社のものを移築し、祭神のみ日部神社の彦坐命を祀った。
現在の本殿は室町期の建造物と伝えて、大正6年特別保護建造物に指定された。


由緒

式内社で日下部祖彦座命を祀る古社である。由緒不詳であるが、当社が「輪の内」より現在地の「寺山」に遷座されたのは明治44年10月13日と明治12年の神社明細帳に記されている。当神社は神武天皇御東征の砌上陸された日下の蓼津は此の地なりと古事記伝に記されている。
重要文化財として石燈籠と御本殿があり、石燈籠は正平24年卯月8日の銘あり。楠木正儀氏当地の旧社家大塚氏宅に滞在中、当社に皇室の御安泰を祈願し奉献されたものと伝えられている。美術工芸品として価値がある。また御本殿は創立年月不詳然し室町時代の様式を残す建築物である。
御山古墳これは「輪の内」の旧社地(現在地の南方300m)の近くに道臣命の墳墓と称する古墳があり、往時は「大塚山」とも言い日下部首の塚とも比定されていた。遷座後民間に売却された。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




重要文化財

日部神社本殿
(くさべじんじゃ)
▼所在地:堺市草部262
▼所有者:(宗)日部神社
▼特徴・大きさ
 桁行三間 梁間正面三間 背面二間 一重
 正面切妻造 向拝三間 本瓦葺
▼時代:南北朝時代
▼指定年月日:大正6年4月5日
▼説明
 本殿は建築様式や技法、また本殿前にあった石燈籠(重要文化財)に正平24年(1369)の製作年代が刻まれていることなどから、その頃に建立されたと考えられます。 柱の間を飾る蛙(かえる)の足のような形をした蟇股(かえるまた)という部材には、祭神である牛頭天王(ごずてんのう)にちなんだ牛、唐獅子(からじし)、碁を打つ二人の人物、鳩と松、鴛鴦(おしどり)など、さまざまな彫物があります。

 



日部神社石燈籠

この石燈籠は四角形のすっきりした美しさと、和泉砂岩の細かい石質を生かした装飾性豊かな彫刻に特色があります。
比較的薄作りの笠の上には、近畿地方の石燈籠には珍しく四方に火炎をあらわした宝珠をのせ、火袋の大きく面取りした各面には厚肉彫りで四天王立像を刻んています。火袋の火口を除いた各面には宝相華唐草文・唐草文・日月輪・雷文を記し、火袋を受ける中台側面は二区に分け唐草文をあしらっています。
方形の竿やそれを受ける基台の意匠もまたすばらしいもので、竿の二面に刻まれた昇り龍と降り龍は頭と尾の先を見せているだけで胴は雲の中に隠れ、基台四面の唐獅子は全て形姿が異なるなど構図にも工夫がみられます。竿の他の二面には「和泉国」「正平二十年卯月八日」という銘文が記されており、この石燈籠が南北朝時代・正平24年(1369)に作られたことがわかります。製作年代の判明する工芸的に優れた四角燈籠として大変貴重な作品です。
以前は本殿の向かって右側に置かれていましたが、風雨によって石質の劣化が進行したため保存修理がおこなわれ、修理後、石燈籠は収藏庫内に移され、もとの場所には複製品が置かれています。
1994年3月
堺市教育委員会

社頭掲示板



日部神社

当社は、この地を原籍とする日下部氏の祖彦坐命を斎神として延喜式神名帳にも記されている古社である、明治の神社合祀策によって同44年鶴田村字輪之内にあった日部神社・同字寺山の八坂神社・原田の熊野神社・上村の菅原神社が合祀され現在に至っている。
本殿及び神門は、八坂神社のものをそのまま残し、拝殿は旧菅原神社のものを移築し、祭神は、日部神社の彦坐命を祭った。南面する本殿は、切妻造りの外観を示し、向拝がつくため正面の屋根は入母屋造風となっている。ただ後世の改造が多いため、当初の形は不明である。向拝の組物・蟇股、斗供・繋虹梁・垂木などの細部に南北朝から室町初期の様式が見られる。
本殿前右側の石燈籠は単弁の反花座上におく方形の基礎側面の帯郭内に牲丹・獅子が半肉彫され、竿側面の前後にも、龍・雲・宝珠が浮彫りされている。竿の左右二面には「和泉国大鳥郡草部上条牛頭天王燈籠也」「正平24年巳酉卯月8日」の銘文がある。
本殿と石燈籠は国の重要文化財に指定されている。
堺市

社頭掲示板



日部神社

日部(くさべ)神社〔福和泉支所官内〕は、古くは日下部(くさかべ)の祖神、彦坐命(ひこいますのみこと)を祀ったもの。
延喜式神明帳に、「日下部神社」とある。
和泉国の豪族に、日下部首(おびと)がいた。日下部首は、開化天皇の皇子彦坐命の子孫といわれている。日下部首氏は日下部郷〔昔の鶴田村・取石村・直石村の範囲と思われる〕に住んでいた豪族で、一族にはおとぎ話で有名な浦島太郎もいたという。
日部神社は、彦坐命と道臣命・神武天皇を祀っている。もとは、大字(おおあざ)草部輪の内にあった。明治44年6月当時の鶴田村にあった八坂神社・菅原神社・熊野神社を合祀(ごうし〕して、中世に八坂神社が鎮座していたといわれる地に移された。
日部神社には、国の重要文化財に指定されている本殿と石燈籠がある。
▽本殿
旧八坂神社の本殿。室町時代初期の建造物。本殿は、少し変わった屋根を持っている。ちょっと見ると、妻を正面にした入母屋造(いりもやづくり〕のようだが、実は背面後側が入母屋造、正面は切妻造(きりづまづくり〕になっている。昔は、建物すべてが極彩色だった。
▽石燈籠
笠に「和泉国大鳥郡草部上条牛頭天王燈籠也」「正平24年〔1369〕卯月8日」という銘あり。
銘の中に、生頭天王燈籠也とあるように、八坂神社は、素盞鳴尊(すさのおのみこと〕を祀った神社。勢いの強い神で、祈願のため楠正儀氏が寄進したものといわれている。
堺市

社頭掲示板



日部神社

当社は、この地を原籍とする日下部氏の祖彦坐命を祭神として、延喜式神名帳にも記されている古社です。
明治の神社合祀策によって、鶴田村字輪之内にあった日部神社、同字寺山の八坂神社、原田の熊野神社、上村の菅原神社が合祀され、現在に至っています。
本殿は、南北朝時代の建築で、向拝等には時代の特徴が見られます。
向拝の蟇股には、祭神である牛頭天王にちなんだ牛、左右の蟇股には、唐獅子が彫られています。
石燈籠(現在は収蔵庫内)は、四天王像、唐草文、牡丹や獅子など豊かな装飾が施されています。
竿に刻まれている銘文から、この石燈籠が正平24年(1369)に作られたことがわかります。
本殿と石燈籠は、国の重要文化財に指定されています。
神門は、桃山時代の様式を受け継ぐ17世紀前期の四脚門で、平成20年に堺市指定有形文化財に指定されています。

社頭掲示板



重要文化財 日部神社本殿及び灯籠

昭和25年8月29日指定
延喜式内社であるが、明暦年間(1655−57)に火災にあって、旧記・社宝等を焼失したため創建年代・社歴などは明らかでない。しかし、本殿ほ、室町時代初期の建立で、本殿右脇にある「正平24年己酉卯月8日の銘文をもつ石灯籠とともに国の重要文化財に指定されている。なお、神社は、もと市内大字草部輪内にあったが、近年この地にあった八坂神社と合祀してこの地に移されたといわれている。

社頭掲示板



日部神社

日部は久佐陪と訓べし、和名鈔、(郷名部)日部(仮字上の如し)○祭神彦坐命、(風土記異本)○草部郷草部村に在す、(泉州志、和泉志、式社考、)〇古事記、(開化段)日子坐王、娶春日建国勝戸売之女、名沙本之大闇見戸売生子、沙本毘古王者、日下部連之祖、』姓氏録、(和泉國皇別)日下部首、日下部宿禰同祖、彦坐命之後也、また(山城国皇別)日下部宿根、開化天皇皇子彦坐命之後也、また、(河内國皇別)日下郡連、彦坐命子狭穂彦命之後也
連胤按るに、印本日部ヒベと点せるは、文字の上に就たる訛也、日下部氏も坂上氏と同じく、諸國に散在したる大姓なれば、かならず氏社あるべし、今クサベと唱ふるは、後世の略称なるべし、出雲國出雲郡久佐加神社も彦坐命也と云り、又云、日本紀、雄略天皇13年條に、狭穂彦玄孫歯田根命云々、天皇使歯田根命、資財露置於餅香市邊橋本之土、と見えたれば、氏人の河内國にありし事志られたり、さては此辺に氏神社あるべきことわり也、
神位
國内神名帳云、從四位上日下部社前、
氏人
日本紀、顕宗天皇巻、帳丙日下部連使主與其子吾田彦、奉天皇與億計王、避難於丹波国余社郡、」同、孝徳天皇巻、草壁連醜経、」続日本紀、神護景雲2年2月庚辰、河内国河内郡人日下郡意卑麻呂賜姓日下部連、

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