開口神社
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   【延喜式神名帳】開口神社 和泉国 大鳥郡鎮座
   【延喜式神名帳】生国神社 鍬靫 和泉国 大鳥郡鎮座

   【現社名】開口神社
   【住所】大阪府堺市堺区甲斐町東2-1-29
       北緯34度34分36秒,東経135度28分27秒
   【祭神】塩土老翁大神 素盞嗚大神 生国魂大神
       『特撰神名牒』事勝食勝国勝長狭
       『神社覈録』事勝食勝国勝長狭

   【例祭】9月12日前の日曜日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】敏達天皇11年(582)8月奉幣し神戸を定められた
       聖武天皇18年(741)詔勅により社殿を造営
       翌19年8月天皇行幸して勅祭
       天平18年(746)行基が境内に念仏寺を建立
       大同元年(806)空海が宝塔を建てた
       承平2年(932)5月正五位上
       明治6年(1873)郷社
       明治35年府社
       昭和20年7月10日戦災で焼失

   【関係氏族】
   【鎮座地】鎮座地不変

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「大寺」と称していた
   【公式HP】 開口神社
   【社殿】本殿
       手水舎・社務所・宝庫・儀式殿

   【境内社】瑞森瑠璃殿(藥師社)・琴平社・十八社合祀社
       舳松社・竈社(荒神社)・豊竹稻荷社

   【神宮寺】僧行基がこの地に一寺を創建してこれを密乗山念佛寺と称した


商店街の中の平地の神社。 神功皇后が三韓を征して凱旋された時、詔して塩土老翁を斎き祀らせたのがその創祀という。
古来住吉大社の奥の院とされ、関係は密接であった。
天平18年(西暦746年)行基が境内に念仏寺を建立し、大同元年(西暦806年)空海が宝塔を建てたことで神仏習合が行われ大寺とも呼ばれ、現在も「大寺」の呼称が残っている。
古来勅願所であつた関係で公武の崇敬頗る篤く、殊に近衛家の尊崇は格別であった。
中世武家の信仰は室町幕府の御教書、下知状により察せられ、また豊臣秀吉は朱印状により所領安堵し、徳川幕府もこれを踏襲し大鳥郡築尾村の内八十石を所領安堵した。
当社を「生国神社」の論社とする説がある。


由緒

当神社は神功皇后三韓より帰られしとき、この地に塩土老翁神を祀るべしと詔し給ひてお祀りしたのが当神社の起源と伝えられています。敏達天皇10年8月、掃守連矢負を遣わして奉幣し神戸(神社の神田、神領)を定められました。醍醐天皇延喜の制式内の祀典(式内社)に列せられ従五位上授けられ、承平2年5月、正五位上に進められました。その後、鳥羽天皇天永4年、原村(今の仁徳陵の付近)に座す素盞嗚命・木戸村(所在不詳)鎮座の生国魂命を当社に併せ祀り、開口三村大明神と号し堺の氏神として崇敬されました。
当神社所蔵大寺縁起(重要文化財)記載によりますと、聖武天皇天平18年、詔勅により社殿を造営し、翌19年8月朔日、勅祭あらせられ社領を定めるとあり、朝廷武家の尊崇篤かりし事は寄進された多くの社宝に明らかです。当神社の主神塩土老翁神様は住吉の大神様(上筒男、中筒男、下筒男)を一つにしてその御神徳を現わしたといわれる神様で昔から住吉の奥の院といわれます。また神社の創立が古く市中の要衝に位置する為維新後は県庁市役所を設けられたり、三国丘、泉陽等の今の高校の前身がここに設けられたこともあります。明治6年郷社、明治35年4月30日、府社に列せられました。昭和20年7月10日戦災、ため社殿建造物焼失しましたが、氏子崇敬者の熱心なる努力により昭和38年、御本殿拝殿の新築なり、昭和40年、儀式殿(瑞祥閣)が新築されました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




開口神社

祭神は、塩土老翁を主神とし、素盞鳴尊・生国魂命を配祀している。延喜式による式内社。
当社の祭神考によると、神功皇后摂政2年石津北原で天神地祇を祭った際、老漁夫が赤目の魚を献上した。
神功皇后は、これを瑞兆として、その地に塩土老翁を祭らせたのが、当社のおこりとされており、往吉神社の別官、或は奥院と考えられていた。
天永4年(1113)原村鎮座の素盞鳴尊・木戸村鎮座の生国魂命を開口神社に合祀して、開口・原・木戸の三村の産土神とし、開口三村大明神と称した。
これより先、行基がこの境内に念仏寺を建立し、僧侶が社務をもったので、大寺とも呼ばれた。大寺縁起絵巻。伏見天皇宸翰御歌集、短刀銘吉光は、国の重要文化財に指定されている。また、開口神社文書は史料的に高い価値を占めている。
南荘(大小路以南)の氏神としてのみならず、広く旧市域内外の人々の信仰を集めている。
堺市

社頭掲示板




府指定有形文化財

(あぐちじんじゃもんじょ)
▼所在地:堺市甲斐町東2丁1−29(大阪市立博物館・大阪城天守閣・堺市博物館寄託)
▼所有者:(宗)開口神社
▼特徴・大きさ:一括(二十巻十八幅四冊一帖二三九紙)
▼時代:鎌倉時代〜江戸時代
▼指定年月日:昭和53年8月4日指定
▼説明
 開口神社文書は、鎌倉時代から江戸時代にいたる開口神社と大寺念仏寺(おおてらねんぶつじ)関係の古文書です。
 文書群の内容は田地寄進状(きしんじょう)、田地売券(ばいけん)、所領安堵状(あんどじょう)、室町幕府関係文書、秀吉朱印状など多岐に渉っています。特に、「天文四年(1535)4月28日念仏寺築地修理料差文」(念仏差帳日記)には千利休などの名が見られます。
 これらは開口神社と大寺の歴史のみならず、堺の歴史を知るうえで欠くことができない史料です。



開口神社

開口神社
(通称大寺さん)
由緒書
開口神社
堺市甲斐町東2丁鎮座
御祭神 塩土老翁神
    素盞鳴神
    生国魂神
創建
神功皇后(約1700年前)の勅祭により創建せらる
由緒
当神社は神功皇后三韓より帰られし時、この地に塩土老翁神を祀るべしと詔し給ひてお祀りしたのが当神社の起源と伝えられています。 敏達天皇拾年八月掃守連矢負を遣して奉弊し神戸(神社の神田、神領)を定められました。
醍醐天皇延喜の聖朝式内の祀典(式内社)に列せられ従五位上を授けられ承平2年5月正五位上に進められました。
その後、鳥羽天皇天永4年原村(今の仁徳陵の附近)に座す素盞鳴命木戸村(所在不詳)鎮座の生国魂命を当社に併せ祀り開口三村大明神と号し堺の氏神として崇敬されました。当神社所蔵大寺縁起(重要文化財)記載によりますと、聖武天皇天平18年詔勅により社殿を造営し翌十九年八月朔日勅祭あらせられ社領を定めらるとあり、朝廷武家の尊崇篤かりし事は寄進された多くの社宝に明らかです。
当神社の主神塩土老翁神様は住吉の大神様(上筒男、中筒男、下筒男)を一つにしてその御神徳を現わしたと云われる神様で昔から住吉の奥の院と云われます。又神社の創立が古く市中の要衝に位置する為維新後は県庁市役所を設けられたり、三国丘、泉陽等の今の高校の前身がこゝに設けられた事もあります。
明治6年郷社、明治35年4月30日府社に列せらる。
昭和20年7月10日戦災のため社殿建造物焼失しましたが、氏子崇敬者の熱心なる努力により昭和38年御本殿拝殿の新築なり昭和四十年儀式殿(瑞祥閣)が新築されました。
社紋
当神社の社紋は三つ茄で珍らしいものです。もと御祭神に関係のある巴でしたが白鳳年間に氏子の中より一つの萼に茄子が三つ出来たこれはおめでたい事だと奉納され三つ巴が茄子に変ったと伝えられています。
明神は墨の江ながら御紋こそ
  三つむらさきの茄なりけれ
正親亜相公通卿の自画自賛があります。
境内神社
豊竹稲荷神社  白髭神社  松風神社
塞神社(庚申さん)  竈神社(荒神さん)
巌島神社(弁天さん) 舳松神社  北辰神社
楠本神社  三宅八幡神社  少彦名神社
恵美須神社(戎さん)  大国魂神社(大黒さん)
神明神社  豊受神社  熊野神社  舟玉神社
菅原神社  産霊神社  兜神社薬師社
宝物
古来勅願所でしたので公武の崇信篤く寄進された宝物すこぶる多く殊に大寺縁起(土佐光起画、公卿二十五人筆の絵巻物)伏見天皇冬の歌百首(伏見天皇御震筆)吉光短刀(粟田口吉光の短刀)は(旧国宝)重要文化財に指定されています。
其他古文書類多数あり近く一冊にまとめて出版します。
豊竹稲荷神社
稲荷大神が顕われ給ひて奇跡を行われたと伝えられる古木があり御祭神をお祀りしてある御社殿割拝殿等が整っていましたがこれも戦災の為焼失し戦後は末社を集めて一棟にお祀り申し上げましたが此度崇敬者の皆様の御尽力により立派に社殿が復興されました。
毎年春秋の午の日を選んで大祭を行います。
瑞森薬師
境内神社薬師社は行基菩薩自作と伝えられる薬師如来像をお祀りしてあります。昔境内に大きな楠がありこの樹に三浦坊と云う天狗が常住したとの伝説があってここが聖地であるとして聖武天皇行基に命じて大念仏寺を建てしめ行基の作った薬師如来像を安置したと伝えられています。この像が大念仏寺(大寺)の本尊ですが明治維新の時、神仏を別け寺を廃寺にすることになり神社んのみの神域になりました。この時薬師像の威徳を讃仰し崇敬する者多くひそかに社内にお祀りしましたが、先般百年振りに社殿を造り薬師社としてお祀りしました。
恒例神事
1月1日    元旦祭
1月3日    元始祭
1月15日   とんど祭
2月節分    節分祭
2月11日   建国祭
2月17日   祈年祭
3月春分    春分祭
4月三日    神武天皇祭
        天皇誕生祭
5月3日    憲法記念祭
5月5日    端午祭
6月30日   大祓式
7月12日   夏季祭
9月12日   例大祭 渡御
9月13日   田実祭
九月秋分    秋分祭
11月3日   文化祭
11月12日  冬季祭11月23新嘗祭
12月31日 除夜祭大祓式
しらひげさん
本殿の北側にあった井戸屋形のような小さな祠。人々はそれを“しらひげさん"と呼んで信仰していました。
むかし朝鮮の国には、いろいろな善政で国民から非常な信頼を受けていた若光という王様がおったそうな。
白いヒゲを生やしたその王様は、俗に“しらひげさん"の愛称で慕われ、死後も神としてあがめ続けられておった。
この、新羅(しらぎ)から渡ってきた“しらひげさん"と称する神と、磯良(しら〕と称する日本の神との混合体が、境内に祀られておる“しらひげさん”じゃ。
その“しらひげさん"を祀った祠の中には井戸があってな。その中に一匹の竜神(しら)が住んでおり、毎年初秋の頃になると昇天して大雨を降らせたそうな。渇水に困っている農民たちはそりゃもう大喜びしたもんじゃ。
なんでこの地に祀られたか定かではないのじゃが、なんでも、開口神社に祀られているスサノオの神は、永らく新羅の国に住んでおってな新羅に精通する神としてあがめられてもおったそうな。そんなことからこの地に“しらひげさん"の祠をもってきたのじゃろう。
金竜井の由来
神社西門の入口には「金竜井」と呼ばれている古い井戸が残っております。その非戸には、こんな伝説が…。
むかしむかし、ここに海会寺という寺があったそうな。
ある年の夏やった。毎日、日照りが続いてな。木や草はしおれてしまい、井戸炉まで水がなくなって、人も動物も水を求めて喘いでおった。
そんなある日、海会寺の和尚が庭にたたずんでおると、1人の老人がやってきて「前世の咎で蛇身に生まれついた私をお救いください」というので、和尚は念仏一心に祈りなさいと教えたそうな。すると老人はたいそう喜んで「お礼にいいことお教えしましよう。庭の片隅に鵜の羽を敷いて一夜おき、その下に臼露が湧いたらそこを掘ってみてください。ぎっと水が湧き出るでしょう」と言い残し、そのまま立ち去ったそうじゃ。寺男が後をそっとつけて行くと、老人は一匹の大きな竜になって草むらへ消えていったそうな。
さて、和尚は老人のいった通りにして掘ってみると、なんと清らかな水がこんこんと湧き出たそうじゃ。その水の湧き出した跡が今の「金竜井」で、神社の北門を少し行ったところにある蛇谷が、老入が竜の姿に変わって消えたところだそうな。
みむらん坊
本殿の前には戦前まで、樹齢600年以上といわれる樟の大木が生えていました。そのむかし、そこには年を経た大狗が住んでいたそうじゃ…。
木戸、原、開口村のあ3つの村の社が合併されたそのむかし、ここの村人を"みむらん坊"とゆうとった。その中に「日千里の道を往復できる」と大言壮語する者がおったそうじゃ。神変自在の力が知られている彼のことを、“みむらん坊天狗"と称えておった。ある時この天狗、「下界には住むことができぬ」といって、神社本殿の前にある大樟の大木に登ってゆき、人前に再び姿を見せぬことになったとか。 木の葉がうっそうと生い茂るその大木は、まるでひとつの森のように、神殿を一段と神秘的に見せていたそうな。上を仰いでも梢は児えず、木の股に設けられた祠が、うす暗い闇の中に浮んでいるかのようやった。村人はこの中に天狗が住んでいると噂したそうな。
そんなある日、天狗は、大和吉野の大天狗と問答の闘いを行なったそうじゃ。しかし無念にも負けを喫したため、一夜吉野に飛行し、大天狗の膝下に参じたんだと。吉野山の山奥に、今も朱塗りの立派な桜門が見えることがあるそうじゃが、それは、“みむらん坊天狗"が大寺の山門をその際に持ち運んだものじゃそうな。
開口ひと口メモ
神社なのになぜ大寺さん???
明治以前、当神社は神宮寺として真言宗の念仏寺という寺を持っていました。このお寺は、行基が建立したお寺のひとつでその勢力はたいへん大きく、江戸時代には八十石の朱印を受けていました。このお寺が俗に「大寺」さんと呼ばれていたのですが明治以降に廃寺とされ、そのなごりとして三重の塔だけが残されました。しかし、残念なことにこの塔も戦火によって焼失。
「大寺」さんという呼び名だけが残っているのです。

由緒書



開口神社

あぐちじんじや 大阪府堺市甲斐町東。
旧府社。祭神塩土老翁大神、素盞鳴命、生国魂神。社伝によると、神功皇后凱旋の際、塩土翁が当地に影向されたのを創祀したと伝えられている。既に、奈良時代の天平16年(744)行基が境内に一寺を建立、後弘法大師参籠し、真言宗無本寺と称した。
それゆえ当地ではいまだに当社を「おおでら」と呼びならわしている。『延喜式神名帳』に登載され、朱雀天皇承平2年(932)に正五位上となっている。鳥羽天皇天永年間(1110−12)に隣接の原村より素盞鳴命、木戸村より生国魂神を合祀したので以後三村大明神と称し、堺南の総氏神として崇敬されていた。神仏分離の際、多宝塔を残して仏堂すべて毀却したが、その多宝塔も戦災にて焼失、流造(五・五坪)ほか諸社殿及び社務所を再建復興した。社宝として大寺縁起絵巻 二巻(元禄3年(1690)士佐光起筆)重文等がある。例祭9月12日。

神社辞典



府社 開口神社

祭神 塩土老翁神 素戔嗚命 生國玉命
社記に云ふ、神功皇后既に三韓を征して還り、茅淳石津長狭濱の塩穴松原に着きたまひ、忍熊王の乱を平げんとて天神地祇を祭りたまひし時、土人争ふて供御を奉りしに、兄濤といふ漁夫あり赤目魚を献ず、皇后彦火々出見命の故事を思ひたまいて今内外安く治まりたる時、此魚を得たるは吉兆なりと喜ひたまひて、蟹守葦見別の女仲媛に命して、其地に塩土老翁を祀らしめたまふ、即ち此社なり、敏達天皇11年8月掃部連をして幣帛を奉らしめ社領をも定めたまふ(社記)、聖武天皇御宇僧行基密乗山大念佛寺を開基して當社の宮寺とす(泉州志和泉名所図絵)、醍醐天皇延喜の制小社に列し延喜式)、同延喜の御代從五位上を授けられ、朱雀天皇承平2年5月正五位上に進めらる(日本紀略)、殊に当國住吉神社の外宮として崇敬淺からす、故に朝廷より20年1月住吉社の造替ある毎に当社も亦之に預りき、(八幡本記)社領高八十石あり(泉州志)、又俗に當社を三村大明神といふ(和泉志)、そは此地の南に開口、木戸、原の三村あり、素戔嗚命は原村に、生國玉命は木戸村に鎮座ありしを、鳥羽天皇天永4年3月当社に合祀せし故なり(名所図絵、和泉志、社記)、親長卿記に「文明15年2月27日晴、午後出立下向境也、3月25日、参詣三村、」とあり、然れども今は其號廃れたり(和泉志)明治6年郷社に列し、同35年4月府社に昇格せり、境内4434坪(官有地第一種)、社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神饌所、神輿庫、神樂殿、宝庫、神馬含、絵馬舎、連歌所。社務所、座敷、茶室、土蔵、納屋等の建物を備へ、甚壮麗を極め、千古の老樟亭々として天を覆ひ、嚴として旧社の観あり、宝物には、一縁起三巻元禄12年近衛関白寄進、一東山天皇延喜天覧状一通、一櫻町天皇縁起天覧状一通、、桃園天皇縁起天覧状一通、一後桃園天皇縁起天覧状一通、一仙洞御所縁起天覧状一通、一仁孝天皇縁起天覧状一通、一孝明天皇縁起天覧状一通、以上は臨時全國宝物取調局より、美術の参考となるへきものと認定すとの鑑査状を受けたり、共他一聖武天皇御宸翰般若心経一巻、一聖武天皇御肖像一幅(土佐光起筆といふ)、一光明皇后御肖像一幅(土佐光起筆といふ)、一後伏見天皇御詠歌一巻(御宸筆三百首)、一後花園天皇御奉納鐙一具(永享9年とあり)、一女院御所御下文一巻(応永32年11月13日光範門院御祈願御下文二)、一足利將軍家の教書四通、一豊臣秀吉朱印書一通、一豊臣秀次の書状一通。一菊御紋御寄附状一通(宝永2年のものなり)、一白髭神の立像一体、一菅公眞影一幅、同北野聖廟縁起奥書写一巻、一藥師如來座像一体(僧行基作)、一良尚親王御染筆三村宮額面一幅、一左大臣藤原忠熈筆開口神社額面、一正親町公通卿自画自讃茄子絵一幅、一当社旧記六巻、一北條氏朝寄進の三村宮奉納、一冷泉為宗卿筆古今集二巻、一尊朝法親王御染筆外題頓阿法師筆繋蒙抄一冊、一持明院中納言基時卿筆外題近衛宗嚢筆伊勢物語一冊、一三十六歌仙二十六枚(元禄18年土佐光則画公卿十八人画)、一羅國香木一個(寛保2年2月堺谷臍泉奉納)、一鉾一口(明暦元年摂津住吉住人忠倫作)、一兼盛の太刀一口、一宗近の太刀一口、;口光の短、刀一ロ、一文珠四郎氏
定大小刀一ロ、一勢州正重の短刀一口、其他種々ありと云ふ(社記)。
〇住吉奮記云、
亀飼
引鳥
酉"大明神滑。伊鉾讃尊御干事勝食瞬団長襖也、
啄名■
土窄磐
後合一「祭眺玉明騨牛頭天王卿とあり、然るに廷暦八年の住吉大吐宮司

明治神社誌料



開口神社

開口は安岐久知と訓べし○祭神事勝食國勝長狭命、(住吉旧記〇惣国風土記異本云、須佐能雄尊、稲田姫、』同第四云、堺郷天皇祭神上の如し、)○堺南庄甲斐町東に在す、(泉州志、和泉志、式社考、)〇日本紀神代巻上、一書曰、伊弉諾尊乃報之曰、投其褌、是謂開噛神、」古事記、(神代段)伊邪那岐大神禊祓也、於投棄御冠所成神名、飽咋之宇斯能神、〇住吉旧記云、(泉州志引用)開口大明神者、伊弊諾尊御子事勝食勝國長狭也、後合祭生玉明神牛頭天王爲住吉之外宮、故朝廷廿年一度毎造替住吉社、当社亦造替、当地元開口村、木戸村、原村之間也、故俗號三ツ村大明神、(和泉志云、三村之号今廃、」)式社考云、俗謂住吉奥院大寺之内也、
神位
國内神名帳云、從五位上開口社、
社領
泉州志云、社領高八十石、
雑事
親長卿記、文明15年2月27日、晴、午後出立下伺境也、3月25日、参詣三村

神社覈録



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