開口神社
あぐちじんじゃ


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【公式HP】

開口神社は奈良時代には開口水門姫神社と称しており、最古の国道と言われる竹之内街道の西端にあって大阪湾の出入口を守る神社で、神功皇后勅願によって建立されたと伝えられます。
堺の集落はこの辺りから発展し、町となって来ました。その後、平安末期の天永4年(1113年)開口・木戸・原村の神社が合祀され堺の総氏神として崇敬を集め、また江戸時代まで念仏寺というお寺が境内に在った事から今も大寺さんといわれ親しまれています。
御祭神   塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)
      素盞嗚神(すさのうのかみ)
      生国魂神(いくたまのかみ)
創 建   神功皇后の勅命による(西暦200年頃か)
社 格   「延喜式」神名帳(記載) 「式内社」


【重要文化財 「大寺縁起絵巻」】

昭和25年12月20日に それ迄国宝指定でしたが法律の改正等で、重要文化財に変更されました。
江戸時代元禄3年(1690)に奉納された3巻より成る、開口神社と神宮寺であった念仏寺(明治になり廃寺となる)の由緒と念仏寺を開いた行基の生涯を記した絵巻物です。
詞書は関白近衛基熙はじめ25名の法親王公卿達が各節を分掌しています。絵は土佐光起の筆になります。
絵の作者である土佐光起の祖父光吉、父光則は、16世紀後半から17世紀前半頃堺を拠点に活動していました。堺生まれの光起は寛永11年(1634)父と共に京都に移り土佐派の絵師として朝廷絵所預の役に任ぜられ、土佐派の再興を果たしました。
この絵巻は光起の亡くなる前年辺りに作製され、天正年間(1573〜1592)に焼失した原本の復元を意図した作品で、光起の手になる丹念な下絵が別に残されており、堺縁の絵師による記念碑的な大作の絵巻として大変貴重です。また元禄期の堺の文化力と富と力を今に伝える大事な証拠品でもあります。
《大阪市立美術館に寄託中です》
(公式HP)


【文化財】

鎌倉時代の仮名の名筆、和歌の詠み手として知られる伏見天皇の「伏見天皇宸翰御歌集」(大阪市立美術館寄託)、室町幕府10代将軍義稙(よしたね)寄進といわれる「短刀銘吉光」(大阪城天守閣寄託)も重要文化財です。
また、「開口神社文書」(大阪歴史博物館・大阪城天守閣・堺市博物館寄託)は鎌倉時代〜江戸時代の開口神社と大寺念仏寺関係の古文書。田地寄進状・売券、所領安堵状、室町幕府関係文書、秀吉朱印状など多岐に渉り府の指定有形文化財です。


【金龍井】

海会寺が開口神社西門付近にあった1338年、名僧乾峯和尚が徳を慕って教えを乞いに訪れた金面龍王という龍に、ありがたい戒を授けました。龍はお礼に干ばつに困る人々のために、「地面に鵜の羽を敷き白露が浮かぶところに井戸を開けば清水が・・・」と教えました。そこに井戸を掘ると水が湧きだし、枯れることなく泉南第一の名泉と伝えられたそうです。
海会寺が元和の大火で南宗寺境内に移転後、開口神社の井戸となり西参道入口の大鳥居南側にあります。金龍の名は金面龍に由来、平成16年に大小路界隈『夢』倶楽部により井戸前に館が完成し金龍井が復活しました。


【影向石】

影向石は開口大神(塩土老翁神)が影向の時に腰かけられ、その後住吉へ向われ住吉の神となったとも、行基上人と法談した場所とも、弘法大師と対面された時の御座所ともいわれる石です。





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