大鳥井瀬神社【宿院頓宮】
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   【延喜式神名帳】大鳥井瀬神社 和泉国 大鳥郡鎮座

   【現社名】大鳥井瀬神社
   【住所】大阪府堺市西区鳳北町1-1-2
       北緯34度34分28秒,東経135度28分22秒
   【祭神】弟橘姫命
       『和泉国式神私考』大野主命

       社名・井瀬からみて、水あるいは禊祓に係わる神とみるべきであろう


   【例祭】10月5日
   【社格】
   【由緒】慶雲3年(706)勅使奉幣営造営
       明治11年(1878)4月大鳥神社々殿に仮遷座
       貞観8年8月14日正六位上から從五位下
       明治初年に大鳥神社へ合祀
       明治41年9月25日大鳥神社境外摂社として此地に移転
       大正11年11月7日頓宮へ遷座

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧鎮座地には2説ある
        @泉北郡八田塩村大字堀上
        A平岡村大明神山

   【祭祀対象】井または堰
   【祭祀】
   【公式HP】 宿院頓宮
   【社殿】本殿
       社務所

   【境内社】

宿院交差点南東に大鳥、住吉共用の頓宮へ境外末社として祀られている。
慶雲3年に創立と伝えられている。
旧鎮座地には2説ある@泉北郡八田塩村大字堀上A平岡村大明神山。いずれか不詳。
井瀬社の社名から「井」を想定することも出来るが、「堰」とも解釈される、この場合その旧社地は石津川流域に面した平岡村に比定される。
大鳥五社明神の本社である大鳥神社の主祭神を日本武尊とするならば、その妃両道入姫皇女・吉備穴戸武媛・弟橘媛を、摂社としての大鳥(鍬靱)神社・同井瀬神社・同浜神社の祭神に比定することは無理からぬことであるが、その主祭神を大鳥連とする場合には、当社の祭神を「堰」に関連する大野主命と考える方が妥当であろう。


宿院頓宮

宿院頓宮は、住吉大社御祭神の住吉大神・神宮皇后と大鳥大社御祭神の日本武尊・大鳥連祖神をお祭りし、堺の鎮守の神として崇敬されています。
御鎮座については不明ですが、堺荘が中世まで住吉大社の神領であったことや、頓宮前の飯匙掘は住吉大神の潮干珠を埋めた所で、その形が飯匙に似ていることから名付けられたとの伝承もあり、古くより住吉大社との縁が深く、住吉行宮・御旅所とも称されています。
「堺鑑」に「此の地は住吉明神毎年6月晦日の御祓御旅所也」とあるように、この御祓まつりは今日では7月31日夜に大鳥大社から、8月1日には住吉大社から御輿を迎えて祭典を行っており、飯匙堀で摂津・河内・和泉三国の大祭として知られた有名な“荒和大祓神事”が執り行なわれます。また住吉大神は海路平安の神として、例大祭には全目の漁師達が神前に数々の鮮魚を献じて、その年の大漁や、航海の安全等を祈願し、併せで魚を大浜で販売した伝統の堺大魚夜市が7月31日夜ザビエル公園周辺で行なわれます。
堺市

社頭掲示板



飯匙掘について

 住吉大社の御旅所である宿院頓宮の空堀。 伝承によれば,海幸山幸神話に登場する「潮干珠(しおひるたま)」(海水を干上がらせる不思議な宝珠)を埋め納めたという神域である。かつての形状が飯匙(しゃもじ)に似ていたことによるとも言い伝えられる。
摂津・河内・和泉の三国一の大祭であった住吉祭(荒和大祓(あらにごのおおはらえ))において,住吉から境まで神興が渡御した最後に,この地を祭場として大祓が行われる。これを「南祭」と称して,旧暦6月晦日に行われたが現在は8月1日に,神興渡御の頓宮祭につづき荒和大祓神事が飯匙掘にて殿祝に行われている。
住吉大社宿院頓宮

社頭掲示板



宿院頓宮

住吉・大鳥亮大社の御旅所
当地は往古から摂津の国一之宮、住吉の御旅所(おたびしょ)であった。「堺鑑云此地(宿院)は住吉明神毎年6月晦日の御払御旅所也。」と『住吉松葉大記』は「堺鑑」を引用している。
寛政7年(1795)刊行の『住吉名勝図会』にも同様の文言があり「堺宿院之図」を載せている。
その府瞰図(ふがんず)を見ると、石の大鳥居、小鳥居を経て、中央に神輿舎があり、南の方に飯匙堀と甲之社の小祠、東の方に名越の岡(なごしのおか)があり、丘の上に舳松社(へのまつしゃ)と如意社(にょいしゃ)が併祀されている。
広さは「東西84間 南北60間」とあり、広大な神域であったことが分かる。
住吉文書の「社務日誌」に、「此の年より大鳥神社宿院に神幸す」と明治8年(1875)8月1日付で記されており、この時から住吉・大鳥両社の御旅所となった。
堺の住吉大社と大鳥井瀬神社
堺の住吉大社の沿革は、住吉文書及び記録によると、文化13年(1816)年5月住吉から堺の吾妻橋通りの新地へ、港内の風浪和静ならんことを祝って、御分霊を歓請したのが始まりで、萬延元年(1860)、波除住吉神社と称して堺港護岸の北波止にお遷しされた。
同所は、対岸に燈台があり、出で入る舟を見守るに相応しいところで、現在も大正11年(1922)に建立された「波除住吉神社址」の石碑がある。
明治39年(1906)の「神社合祀令」の影響なのだろうか、明治41年(1908)9月の移転許可を受けて、大正10年(1921)の11月、住吉の境外末社として遷座されたのである。
大鳥の摂社、大鳥井瀬神社も同時期同様に当地に遷座された様で、当時の設計図に「右方大鳥」とあり、同じ建築様式の二社殿が西向きに併祀されていた。元の鎮座地は、石津川の東、八田荘堀上大明神山と云う。御祭神は、住吉四柱大神と弟橘姫命である。
御社殿は昭和20年7月戦災で炎上したが、同24年に兵庫の廣田神社の御用材を以て再建され相殿となった。
その後50年を経て再び地元堺の人々に依って平成11年の秋、ご本殿修復の御造営並びに奉告祭が斎行された。

公式HP



宿院頓宮

住吉祭と荒和大祓神事
古来より日本では清浄を尊び国家の行事として大祓を執り行ってきた。大祓には毎年行われる恒例の大祓と臨時の大祓とがある。恒例の大祓は6月と12月の寒暑の厳しい時節に行われ、6月の大祓を夏越(名越)の大祓と云い、12月の大祓を年越の大祓と云う。この6月の大祓が夏祭として伝承されてきた。
住吉大神は、記紀によれば伊弉諾命が筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊祓をされた時に出現された神と伝えられている。また、天平3年(731)の奥書がある『住吉大社神代記』に、「三所の大神、(住吉大明神と称すなり。)祷り祓除へする縁発」とあって、御祓いの神とされる所以でもある。更に、同神代記には「六月御解除。開口水門媛神社。」とあり、奈良時代すでに、大祓が行われていたことが窺える。因みに「開口水門姫神社」は延喜式にみえる和泉国大鳥郡の「開口神社」に当たり、神代記には「子神」とある。
今日では単に「おはらい」と呼ばれる住吉祭は、古くは南祭とも云い、夏の盛りに住吉から堺の宿院頓宮へ神幸があり、着輿祭の後、飯匙堀において古儀に則り茅輪をくぐり菅貫を以て「荒和大祓神事」を執り行い、人形に罪穢を託して祓具と共に茅渟の浦海へ流して堺の平安と発展を祈るのであるが、もともと摂津・河内・和泉の国中の大祓の意味が込められている。尚、住吉祭は昭和47年に大阪府民族資料(民俗無形文化財)に採択された。
住吉大鳥両大社の御旅所
当地は往古から摂津一之宮、住吉の御旅所であった。「堺鑑云此地(宿院)は住吉明神毎年六月晦日の御祓御旅所也。」と、『住吉松葉大記』は「堺鑑」を引用している。寛政7年(1795)刊行の『住吉名勝図会』にも同様の文言があり「堺宿院之図」を載せている。その俯瞰図を見ると、石の大鳥居、小鳥居を経て、中央に神輿舎があり、南の方に飯匙堀と甲之社の小祠、東の方に名越の岡があり、丘の上に舳松社と如意社が並祀されている。広さは「東西八十四間、南北六十間」とあり、広大な神域であったことが分かる。住吉文書の「社務日誌」に、「此の都市より大鳥神社宿院に神幸す」と明治8年(1875)8月1日付で記されており、この頃から住吉大鳥両大社の御旅所となった。
堺の住吉神社と大鳥井瀬神社
堺の住吉神社の沿革は、住吉文書及び記録によると、文化13年(1816)5月住吉から堺の吾妻橋通りの新地へ、港内の風浪和静ならんことを祈って、御分霊を勧請したのが始まりで、萬延元年(1860)、波除住吉神社と称して堺港護岸の北波止にお遷しされた。同所は、対岸に燈台があり、出で入る船を見守るに相応しいところで、現在も大正11年(1922)建立された「波除住吉神社址」の石碑がある。明治39年(1906)の「神社合祀令」の影響なのだろうか、明治41年(1908)9月の移転許可を受けて、大正10年(1921)11月、住吉の境外末社として遷座されたのである。
大鳥の摂社、大鳥井瀬神社も同時期同様に当地へ遷座された様で、当時の設計図に「右方大鳥」とあり、同じ建築様式の二社殿が西向きに並祀されていた。元の鎮座地は、石津川の東、八田荘村堀上大明神山と云う。
御祭神は住吉大神と弟橘姫である。
御社殿は昭和20年7月戦災で炎上したが、同24年に兵庫の廣田神社の御用材を以て再建され相殿となった。その後五十年を経て再び地元堺の人々に依って平成11年の秋、御本殿修復の御造営に奉告祭が斎行された。
兜神社
神功皇后御帰陣の砌、甲を神に祝い奉りし処と「堺鑑」は云う。同社は明治41年開口神社に合祀された。
飯匙堀
海幸山幸の彦火火出見尊が所持していた潮干珠を埋めた処と云い伝えられ、堀の形が飯匙に似ている事から飯匙堀と名付けられたという。夏祭にはこの堀で、荒和大祓神事が執り行われる。
名越の岡
明治の頃まで御旅処の東方に小高い丘があり、「名越の岡」と言われていた。頓宮の中庭に刻まれた石柱がある。
桜祭
平成元年から始まった祭りで、先の戦いの後、先代の総代が堺の復興を願って植樹されたと云う桜は、境内及び公園地内に約四十本もあり、堺の桜の名所の一つに数えられ、開花中は花見の参詣者が絶えない。

由緒書



大鳥井瀬神社

大鳥は前に同じ、井瀬は爲勢と訓べし、〇祭神弟橘媛、(泉州志、式社考、)〇半陀郷平岡村大明神山に在す、今廃す、(和泉志)
泉州志云、余按神名帳、井瀬社外別有多治速比売命神社、然則井瀬社者弟橘姫之荒魂耶、」之は多治速此売を、橘姫に付会したるよりの臆説なれば、論ぜずといへども、今暫く惑ひを弁へむため贄す、
神位
国内神名帳云、從三位大鳥井瀬社、
社地・神田
大鳥社流記云、(泉州志引用)坐大鳥里廿五坪内、神田三段、勅施入敷地一段、同廿三坪二段、川堰一所字大鳥井法尻、公田一百余町、但以禰宜為井同、以祝為井守、云々、唾庭料里一所在郡里三十四坪、人々不寄作、

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