宣化天皇(530年)の頃の創立という。山上の大社できれいに整備されている。 陶器生産を専業とした帰化人系集落の守護神として五世紀中頃に創祀されたと思われる。 中古には日蔵上人が感得した牛頭天王・天満大自在天神・藏王権現の三神を祀つていた。 明治初年までは、神宮寺の社僧が社務を氏子立合の下に執行したため、世襲の神主家も存在しなかつた。 本殿は室町時代の流麗華美な遺構で室町時代の建築である。 |
由緒 多治速比売神社案内記 当神社は延喜式内社の一つで28代宣化天皇(530年)の頃の創立と伝えられている。明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが神仏分離の際神社のみとなった。現在の本殿は室町時代の建造物で昭和24年重要文化財に指定せられ、同29年から同31年にわたり解体修理が行なわれた際、天文8年(1539年)から同12年(1543年)の間に再建されたことが明らかとなった。 主祭神は多治速比売命で、女神として安産・縁結び・厄除の守護神として厚く崇敬されている。さらに本殿には素戔嗚尊・菅原道真公・蔵王権現の三体も合祀され、特に道真公は学問の神「天神様」として厚く信仰されている。また本殿の左右に鎮座する阪上社・鴨田社はいずれも式内社で明治末期に平井村・太平寺村から合祀された古社である。さらに境内末社に住吉社・春日社・大神社・熊野社・白山社・福石神・稲荷社と和田村・伏尾村から合祀された八幡社、大庭寺村から合祀になった弁天社などの八百よろずの神々が鎮座され合わせて荒山宮とよばれている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
多治速比売神社 多治速比売神社-荒山宮(こうぜんのみや)-由緒 当神社は和泉国大鳥郡の延喜式内社二十四座のひとつで、西暦530年頃の御創建と伝えられている。明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが、神仏分離の際神社のみとなった。現在の本殿は、室町時代の建造物(天文年間1539年〜1543年に再建)で国の重要文化財に指定されている。 主祭神は多治速比売命(たじはやひめのみこと)で女神として厄除・安産・縁結びの神として崇敬が厚く、また本殿には素盞嗚尊(すさのおのみこと)・菅原道真公も合わせて祀られ、特に道真公は学問の神(天神様)として厚く信仰されている。 境内には十三の末社【坂上社(式内社)、鴨田社(式内社)、大神社、住吉社、天照社、八幡社、春日社、熊野社、白山社、弁天社、稲荷社、福石社、水天宮】があり合わせて荒山宮 (こうぜんのみや)とよばれている。 なお、昭和38年に泉北ニータウンの造成計画に伴い、由緒ある当神社のご神威をさらに発揚すべく境内の整備、拝殿・参集殿等の大改築を行い現在に至った。 当時社有地の大部分は住宅、公園用地として買収され、神社周辺は堺市の公園として荒山公園 (こうぜんこうえん)と名付けられ、そこには「花の名所づくり」の一環として市により梅林が整備され、約1,340本の梅が植樹されている。 当神社は荒山公園の中心として緑の森に囲まれ、春は梅・桜・山つつじ、夏は青葉、秋は紅葉、冬は木々に積もる雪景色と四季折々の眺めは言わん方なく、遠く望めば東に金剛・葛城の連峰南に和泉葛城の連峰 、西には茅渟海に浮かぶ淡路島と壮大な姿が展開され自然に恵まれた景勝の地となっており、年間を通じて参詣者が絶えない。 本 殿 (国の重要文化財) 本殿について 様式は三間社入母屋造(いりもやづくり)で正面に千鳥破風(ちどりはふ)があり大きな向拝があって、それに軒唐破風(のきからはふ)がついている。 向拝柱上部中央の蟇股(かえるまた)には龍・雲・浪、左右の蟇股には表面に牡丹・唐獅子、裏面に雲・宝珠が、内法長押 (うちのりなげし)正面中央の蟇股には桐、右の蟇股には鯱、左の蟇股には山茶花・松・幣が、北と南の側面蟇股には鯉・松・滝・雲がそれぞれ彫られている。 向拝の手挟(たばさみ)は透彫 (すかしぼり)で左右二個あり、向かって右は右面に芭蕉に蟷螂 (かまきり)、左面に水に蓮、向かって左は右面に海藻と貝類、左面に水に花菖蒲が彫られている。また、向拝の木鼻は獣頭のような変わった珍しい形が付けてある。このうち、芭蕉に蟷螂の彫刻は全国でもここ以外では見られないと言われている。 公式HP |
多治速比売神社 多治速比売神社(荒山宮)案内記 当神社は延喜式内社の一つで28代宣化天皇(530年)の頃の創立と伝えられている。 明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であつたが神仏分離の際神社のみとなった。現在の本殿は室町時代の建造物で昭和24年重要文化財に指定せられ、同29年から同31年にわたり解体修理が行われた際、天文8年(1539年)から同12年(1543年)の間に再建されたことが明らかとなった。 主祭神は多治速比売命で、女神として安産・縁結び・厄除けの守護神として厚く崇敬されている。 さらに本殿には素盞鳴尊・菅原道真公・蔵王権現の三体も合祀され、特に道真公は学問の神「天神様」として厚く信仰されている。また本殿の左右に鎮座する阪上社・鴨田社はいずれも式内社で明治末期に平井村・太平寺村から合祀された古社である。 さらに境内末社に住吉社・春日社・大神社・熊野社・白山社・福石神・稲荷社と和田村・伏尾村から合祀された八幡社・大庭寺村から合祀になった弁天社などの八百よろずの神々が鎮座され合わせて荒山宮とよばれている。 なお昭和38年に泉北ニュータウン造成計画により当社も区域内に入り、荒山公園の中心として緑の山に囲まれた由緒深き景勝の地となり、春は桜・山つゝじ、夏は青葉にほとゝぎす、秋は紅葉と池畔に映る名月、冬は木々に積る雪景色と四季折々の眺め言わん方たく、遠く望めば西はちぬの海に浮ぶ淡路島や六甲、東に金剛・葛城の連峰、近くはニュータウンの壮大な姿が展開され、近代的都市の中に1500年前の窯跡あり、池あり、緑地あり、自然と人工の美を兼備する一大楽園である。 この由緒ある当神社のご神威をさらに発揚すべく昭和40年末より三ヶ年にわたり巨額の費用を以て、拝殿.参集殿・社務所神館が大改築せられ、約二万三千平方メートル(約七千坪)の神域の中に新旧両者の美点を統合された姿が見られるに至った。 多治速比売神社本殿について この本殿は西面し三間社入母屋造で正面に千鳥破風があり、大きな向拝があってそれに軒唐破風がついている。その向拝には蟇股があり中央は、龍・雲・浪、左右は、牡丹に唐獅子、内陣中央に桐、右に鯱、左に山茶花・幣、向拝の木鼻は獣頭の如く大分変った珍らしい形がつけてある。室町建築たる向拝手挾が透彫でその両面が優れている。この手挾は左右二個あって両面が彫刻を異にしている。向って右は右面に芭蕉と蟷螂、左面に蓮、左側は右面に海藻に貝類、左面に花菖蒲が彫刻されている。 この中芭蕉と蟷螂の彫刻はこゝ以外には見られないと故天沼俊一博士はその著書に述べている。 多治速比売神社 宮司 吉田醇一 堺市宮山台2丁3番1号 由緒書 |
多治速比売神社 延喜式内社で、多治速比売命(たじはやひめのみこと)を主神として、素盞鳴命・菅原道真を併祀しています。荒山(こうせん)の宮の名でよく知られています。多治速比売命は、日本武尊の妃と考えられています。 また近世には天神あるいは高山天神とよばれていました。明治40年に大庭寺の厳島神社、翌41年に太平寺の鴨田神社、翌42年に伏尾の八幡神社、翌43年には平井の坂上神社、和田の八幡神社の計五社が合祀されました。 本殿は、国の重要文化財に指定され、解体修理の時に天文8年と10年の墨書が発見され、文政2年の棟札の写しには、天文12年2月に再建されたと書かれています。 天文8年から12年にわたって建てられたことが明らかになりました。 八つの蟇股と向拝の二つの手挟(たばさみ)にそれぞれ彫刻がありますが、中でも手挟右面の芭蕉にカマキリの彫刻は大そう珍しいものです。 社頭掲示板 |
式内 多治速比売神社 由緒 御祭神 素盞嗚尊(病気平癒の神) 多治速比売命(厄除・安産・縁結びの神) 菅原道真公(学問・技芸の神) 当神社は、延喜式内社で28代宣化天皇(530年)の頃の創立と伝えられている。明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが、その後神仏分離され、明治末期に小字にあった鴨田社・阪上社・八幡社・弁天社、など、当境内に合祀された。境内末社に天照社・住吉社大神社・春日社・熊野社・白山社・福石神・稲荷社・水天宮など、祀られ総称して荒山(高山)の宮と呼ばれて厚い信仰を得ている。 本殿は、重要文化財で、室町時代の優雅な建築様式を残している。古くは二十町歩(約六万六千坪)の社有地があったが、戦後農地解放にて半ば、昭和38年大阪府の泉北ニュータウン開発計画により太半がかかり、社殿神域を大改築整備し祭礼日には隆盛を極めている。 社頭掲示板 |
多治速比売神社 延喜式内社で、多治速比売命を主神として、素盞鳴命・菅原道真を併祀しています。荒山の宮の名でよく知られています。多治速比売命は、日本武尊の妃と考えられています。 また近世には天神あるいは高山天神とよばれていました。明治40年に大庭寺の厳島神社、翌41年に太平寺の鴨田神社、翌42年に伏尾の八幡神社、翌43年には平井の坂上神社の計五社が合祀されました。 本殿は、国の重要文化財に指定され、解体修理の時に天文8年と10年の墨書が発見され、文政2年の棟札の写しには、天文12年2月に再建されたと書かれています。 天文8年から12年にわたって建てられたことが明らかになりました。 八つの蟇股と向拝の二つの手挾にそれぞれ彫刻がありますが、中でも手挾右面の芭蕉にカマキリの彫刻は大そう珍しいものです。 堺市 社頭掲示板 |
多治ノ速比売神社 多治速比売は丹比乃波夜姫と訓ベし○祭神明か也、(惣国風土記異本云、田心比当ス、同第四云、上神郷上神社、」祭神上の如し、)○上神郷和田村北荒山に在す、(和泉志、式社考、)今天神と称すす、(式社考、) 和泉志云、一作橘姫、乃日本武尊妃、連胤按るに、橘姫といふは、速の假字ハヤをハナと通はしたる、例臆説なるべし、ここはタチヒノハヤヒメにて、多治氏の早姫といふを祭れる事決し、其速姫といふ名は、未た諸書に考へ得ねども、姓氏録、河内和泉の皇別神別等に丹比氏見え、國帳に田治早姫とあるにても、橘姫にあらざることは考へ合すべし、橘姫は大鳥井瀬神社に坐すといふ、是ぞ正しかるべき、 神位 国内神名帳云、從五位上丹治比早姫社、 神社覈録 |