台地の上の神社で境内からの見晴らしがよい。 創建は崇神天皇7年とする。 大田田根子命が勅命をうけて大三輪大神を奉斎することとなつたとき、この陶器郷の太田森に祖神を祀る社殿を建立したという。 大田田根子命は「茅淳県陶邑」に居住していたといわれ、陶荒田神社の宮司だったと言われている。 5世紀頃にはこの地で須恵器の生産が盛んで、荒田直が祖神を祀ったため、地名の陶と人名の荒田から「陶荒田」と称されたといわれている。 この周辺は後世陶器村と称するほど、古代にあつては陶器の生産地であつた。その窯跡は凡そ220か箇所におよび、昭和31年1月18日に「陶器山古代窯跡」として史跡に指定された。当社も陶器を生産する氏の氏神・鎮守神として祀られたのが本来の姿であろう。 この地は須恵器(日本の陶器の祖)の発祥地と称している。 明治初年までは神宮寺である太田山増福寺の社僧が社務を執行したため、世襲の神職は無く、また宮座・頭屋・講などの組織も結ばれなかつた。 |
陶荒田神社二座 鍬 陶は須恵、」荒田は安良多と訓べし、○祭神分明ならず、(一座は荒田直祖歟、一座はいまだ考へ得ず、〇惣國風土記異本には、大已貴命、活玉依姫といふ、)〇陶器庄上村(又曰大村)に在す、(泉州志、和泉志)、○姓氏録、(和泉國神別)荒田直、高魂命五世孫劒根命之後也、 泉州志云、余按、荒田直祖神高魂命、劒根命二坐歟、又云、高魂命合大村直祖神神魂命二座歟、姓氏録、(和泉国神別)大村直、紀直同祖、大名草彦命男枳彌命後也、」和泉志云、以一座称天神、一座称杵築、(泉州志云、杵築社、在辻村余按、昔大已貴神天降于陶邑、後世合祭素盞嗚尊大己貴尊謂杵築社歟、)旧事紀曰、大己貴神乗天羽車大鷲、通於茅淳大陶祇女活玉依姫即此地、」連胤云、泉州志には、天神杵築両村に相隔て、杵築を荒田神社の一座とはいはず、和泉志に相殿と見えたり、(式社考は、泉州志によれるか明かならす、)されば天神の相殿にも粋築神の在すにや、猶國人に尋ねて慥かに定むべし、 類社 播磨國多可郡荒田神社、紀伊国那賀郡荒田神社二座、 連胤按るに、播磨國なるは異神也、紀伊國なるは同神に坐すべきや、 神位 國内神名帳云、從五位上陶荒田社前、 神社覈録 |
由緒 陶荒田神社は崇神天皇の7年(西紀前90年)の創建にかかり、延喜式(西紀905年制定)にも載っている古社であります。素盞嗚命十世の孫大田々禰古命が勅命を奉じて大和国大三輪大神を奉斎する大神主となられました時に、祖先の神霊を斎き祀るため、この陶村すなわち茅淳県(今の堺市付近)陶器郷の大田森に社を建立されたのが当社の起源であります。当社の付近に古代人の集落の跡や、付近に住んだ豪族たちの墳墓と思われる陶器千塚が現存していましたが、現在は泉北ニュータウン等の土地開発によりその一部しか残されていません。陶荒田神社は陶器の守護神としても、この陶邑重要の地に鎮座ましましたことが推定されるのであります。社名陶荒田の由来は祭神高魂命五世の孫剣根命の後に「荒田直」という人が出られ、祖神の奉斎につとめられたによって、地名の陶と人名の荒田とをとって「陶荒田」と名付けられたのであります。以来当社は陶器郷の氏神として朝野の崇敬厚く、且つ陶器の生産に携わる業者の守神として又衣食住(生活の神様)の守護神として崇拝を受け尊敬されて連綿として祭祀を続けております。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
陶荒田神社 主祭神は高魂命・劒根命・八重事代主命・菅原道真で境内末社として山田神社・弁才天社・戎社・太田神社・老松社を合わせ祀っている。 当社の由緒によると崇神天皇の7年に素盞鳴命十世の孫、大田多根子が天皇の命を受け大和国大三輪大神をお祭りする大神主となった時、祖先の霊を祭るため、この陶邑の太田森に社を建てたのが始まりで、主神の嵩魂命五世の孫剣根命の子孫にあたる荒田直が当社の斎祀を行っていたとされ、地名の陶と人名の荒田とをとって淘荒田と名つけられたと伝えられている。 昔、この辺りは茅淳県大村椰ど呼ばれ、丘陵の連なる山間地で陶土と薪に恵まれ須恵器の生産が盛んに行なわれていた。近くの泉北ニュータウンを中心として和泉市・大阪狭山市にまたがる一帯に築かれた窯は約千基とも言われ、当社の近くは陶器千塚と呼ばれるほど多くの古墳や窯跡が残っていたが、宅地開発により今ではその一部を残すのみとなった。 なお、当社は延享式にも記載されている古社であり、この地方の産土神として、また陶器製造に携わる者の守護神として崇拝されている。 堺市 社頭掲示板 |
陶荒田神社 御祭神 高魂命 剣根命 八重事代主命 菅原道真公 境内末社 山田神社 活玉依姫命 安産福寿の神 安産腹帯下付 弁財天社 市杵島姫命 子授け弁天 戎社 八重事代主命(恵美須さん) 商売繁昌 家内繁昌 右三社は崇敬者多く崇敬者による戎講 山田講 弁天講の講社もあり多数の参拝者を数えています 太田神社 大田々根子命 農耕の神 老松社 祭神不詳 歯の神 創建 人皇第十代崇神天皇7年11月(西歴前90年)創建の延喜式式内社 祭祠 元旦祭 1月1日 初戎祭 1月9・10・11日 節分祭 2月初旬 子授け弁天大祭 2月7日 山田神社(安産福寿の神)大祭 4月3日 大祓祭 6月30日 12月31日 秋の大祭 10月10・11・12日 神恩感謝祭 12月31日 由緒 陶荒田神社は崇神天皇の7年(西紀前90年)の創建にかかり、延喜式(西紀905年制定)にも載っている古社であります。 素盞鳥命十世の孫大田々禰古命が勅命を奉じて大和国大三輪大神を奉斎する大神主となられました時に、祖先の神霊を斎き紀るため、この陶村すなわち茅淳県(今の堺市附近)陶器郷の大田森に社を建立されたのが当社の起源であります。当社の附近に古代人の集落の趾や、附近に住んだ豪族達の墳墓と思われる陶器千塚が現存していましたが現在は泉北ニユータウン等の土地開発によりその一部しか残されていません。 陶荒田神社は、陶器の守護神としても、この陶邑重要の地に鎮座ましましたことが推定されるのであります。 社名陶荒田の由来は祭神高魂命五世の孫剣根命の後に「荒田直」という人が出られ、祖神の奉斎につとめられたによって、地名の陶と人名の荒田とをとって「陶荒田」と名づけられたのであります。 爾来当社は陶器郷の氏神として朝野の崇敬厚く、旦つ陶器生産に携わる業者の守神として又衣食住(生活の神様)の守護神として崇拝を受け尊敬されて連綿として祭祀をつづけてきております。 現在は綜合結婚式場も完備し最近では近郷近在は申すに及ばず全団各地からも多数の参拝者をいただいております。 追記 陶器郷は、古墳時代から平安時代に至る長い年月にわたって生活必需品である陶器(須恵器)を焼いていた陶工の集落で確認された窯跡の総数は130有余所に及んでいます。 出土の陶器は、弥生式や土師器等と異なり新しく大陸から伝来した高級な技術によって作られたもので、今日の陶磁器の遠源というべきものであります。奈良朝以前においては、わが国陶器生産の中心地となっていた観があります。 発掘されたカマ跡は平安時代のものと推定されております。そして従来附近のカマは上リガマ(タキ口から煙道にかけて高くなっている)と信じられていたものがこの発掘によって傾斜面の無い平ガマであることがわかり、ダ円形の煙道には通風をよくするため細長い道がつけられてあります。このような貴重な遺跡でありますところから、大阪府古文化記念物等保存顕彰規則により「陶器山古代窯跡」として史跡に指定されました。陶器郷は昔大村郷ともいい高蔵寺村、深坂村、田園村、辻の村(以上は旧西陶器村)上の村、北村府久田村(福田)見野山村、岩室村(以上は旧東陶器村)の諸村に分かれていました。 この陶器郷の名の昔はこの地において陶器を多く作りだしたところから名付けられたものであります。もっとも古くは日本紀崇神天皇七年の巻に『霊夢によって茅淳県陶邑において大田々根子を貢る』と記されています。『大田々根子命が大和へ行かれた時崇神天皇は神浅茅原で群臣を居並ばせ、その中で「お前の先祖は誰であるか。」と尋ねられた。 命はたち所に「私は三輪山の大神様と活玉依媛との間に出来た神様の子孫であり、しかも活玉依媛は陶邑の陶津耳命(大陶祇〉の娘であります。」と申された。大田々根子命が大神神社の神主となって祭紀を厳修した処天下は平和になった』また旧事紀にも『大己貴神天羽車の大鷲に乗って節渡県(茅淳の事)に下り大陶祇のむすめ活玉依媛を妻として往来した』とあります。しかもこの大田々根子命は現在全国神職の大祖神としてあがめられております。 このように上代すでにこの地に陶氏なる氏族があり、また陶邑という地名があったのであります。またこの郷の人々も陶器を作ることを生業としており延喜式にも和泉の国から多くの陶器を貢進しているとの記事があります。 さらに三代実録(西紀901年完成)に『貞観元年4月21日(西紀895年)河内和泉両国が陶器を焼くための山林を争った時朝使左衛門少尉紀今影が和泉の国と決定した』との史実があります。 社頭掲示板 |