社名がよく分からない神社である。 「国史大系本」では火電神社と記して「いなひかり」と読みを振っているが。 本文では「九條家本・金剛寺本・吉田家本ともに「大電神社」と記し、前二者は「イナヒカリノ」、吉田家本は「イナヒカリ」と訓む。しかし近世では「火雷神社」となり、「ホノイカヅチノ」と訓むよやうに変つてしまった。「大」と「火」、「電」と「雷」は誤読・誤写しやすい文字であるが、「イナヒカリ」と「ホノイカヅチ」の字義は全く別であるから、社名の称呼により祭神にも移動があつたものと考えられる。」 結局「大」と「火」、「電」と「雷」をどう組み合わせれば良いかは不明である。 由緒は不詳。 近世の俗称は「愛宕地藏権現」、または「愛宕大権現」であり、明治以後も「愛宕さん」と呼ばれていた。 神宮寺は嵯峨大覚寺末寺眞言律宗金龍山興源寺であり、その社僧が社務に関与していたと思われる。 明治41年2月、延喜式内社陶荒田神社へ相殿合祀された。 戦後陶荒田神社とは無関係で、百坪足らずの旧社地の一隅に小祠を建て、愛宕神を勧請して祭る個人が現われ、現在は旧地に愛宕神社が祀られている。 |
火雷神社 火雷の假字詳ならず、一本大雷、」以呂波字類抄、火電に作る、(此説印本に火雷イナビカリと読り、兼永卿本大雷とあり、されば此帳假宇は、古本のままにて文字を誤れるか、又一本火雷ホノイカツチともあり、是非を弁へず、按るに、今愛宕と称せぱ、火霊にてホノムスヒならんも知れがたし、)〇祭神分明ならず○陶器庄北村に在す、今愛宕と称す、(和泉志、式社考、) 類社 山城國乙訓郡乙訓坐火雷神社の條見合すべし 神位 國内神名帳云、從五位上火雷社 神社覈録 |