石津神社
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   【延喜式神名帳】石津太社神社 和泉国 大鳥郡鎮座

   【現社名】石津神社
   【住所】大阪府堺市西区浜寺石津町1304
       北緯34度33分15秒,東経135度27分43秒
   【祭神】八重事代主神・大己貴神・天穂日神
       延喜式当時は、石津連がその祖神・天穂日命を祀った氏神社だったと思われる

   【例祭】10月4日5日 例祭
   【社格】
   【由緒】孝照天皇7壬8月10日勅して創建
       白雉3年(652)孝徳天皇御幸
       天平勝宝元年(749)孝謙天皇御幸
       平宝字元年(757)5月神主紀伊守に藤原朝臣姓を給う
       後醍醐天皇御幸

   【関係氏族】石津連
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【公式HP】 石津神社
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】

石津川北岸近く、国道26号線に面して鎮座している。
日本最古の戎社という。蛭子命がこの地の海岸に漂着し、命が携えてきた五色の神石をこの地に置いたことから石津という。
往昔石津村が上と下に分離した時、一方に本社が、一方に御旅所などがあったが、分村したときに各々それを氏神として奉斎し、その後どちらが本社か不詳となったものか。堺県の時に両社正潤の紛議あったが決定していない。
約六百坪の境内には大楠四株がある。



由緒

当宮の起源は古く、人皇五代孝昭天皇(西暦前475年)の御宇7年8月10日、勅願 により創建されたと伝えている。当宮は延喜式神名帳にも見られる日本最古の戎神の 宮として広大無辺の御神徳を垂れ給い、石津の地はもとより付近各地の人々の心の拠 り処として篤い崇敬を集めております。
社伝を抜粋しますと、往古、事代主神、此地に降臨のとき五色の神石を携え来りて此 に置き給う、故に石津と名づく。人皇十一代垂仁天皇の御宇、天穂日命十四世孫、野 見宿祢を当宮の神主と定め給う。仁徳天皇、石津に行幸あり、祈年穀の祭には毎年官 幣使を立て給う。孝徳天皇、白雉3年(西暦652)に当宮に行幸ましましてこの時 、御手洗川に御鏡を落とし給う。是れに依りて御手洗川を益鏡の小川という。(石津川)孝謙天皇、天平勝宝元年(西暦749)に行幸し給い同5年春正月、神主紀伊守 を内裏に召して禄を給う。
同天平宝字元年夏5月、紀伊守に藤原朝臣の姓を給いて従 三位大納言を授けられ、河内の狭山・野田の二村を神領とせられる。当時は社頭も広 く、新堂の岸を西にして、それより八町四方に及ぶ。大社と云えることは、柱は太く 板は厚く造り、社頭は巍々とし殿宇は厳然として広大結構類いなく、出雲大社に次ぐ 御社なればなるべし。その後兵火の為に社殿悉く烏有に帰し、広大なる神領も失われ 、後、漸次建営せり。後醍醐天皇行幸し給いて奉幣し給い、その上、神官に冠、及び 沓を賜る。元禄10年(西暦1697)征夷大将軍、徳川綱吉公より神田八石九斗余の 貢米を免ぜられ朱印地を賜り、河内四郡及び堺の付近は悉くその氏子なりき。桜町天皇の寛保3年(西暦1743)飛騨守石津連、陸野茂基を従六位下に叙せらる。以上 のように朝廷武家の尊崇が篤く、これは偏に御神威の重きによるものであります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




石津神社

祭神は,八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・天穂日命(あまのほひのみこと)を祀り,末社に野見宿祢(のみのすくね)・相殿に石津主命(いしずぬしのみこと)・別に天満宮を祀ります。当社の起源は古く孝昭(こうしょう)天皇7年8月10日勅願により創建された日本最古の戎神とも言われています。垂仁(すいにん)天皇(BC29〜AD70)は当麻の蹶速(けはや)と言う男,四方の国に力を誇るのを聞かれ,天穂日命十四世孫で出雲国の力持ち野見宿祢を召されて力競べをさせ,宿祢は見事に蹶速を負かし,恩賞として蹶速の領地を賜る。(これが相撲の始まりとも伝えられています)又,埴輪の制度を案出するなど智勇共に優れ当社の神主に任ぜられた。その後,孝徳天皇白雉3年(652)当社に行幸奉幣。孝謙天皇も天平勝宝元年(749)行幸され,神主に藤原の姓と,従三位大納言を賜り河内の国狭山・野田の二ヶ村を神領に寄せ給う,更に後醍醐天皇行幸奉幣の時には神官に冠・沓を賜る。当時は社頭広く八町四方に及ぶと社記にあります。明治42年(1909)に宇北町の村社六所神社を合祀しました。

社頭掲示板



石津神社

日本最古の戎宮
石津神社
堺市石津町1丁15番21号御鎮座
●創建(約2400有余年前)
当宮の起源は古く、人皇五代孝昭天皇(西暦前475年)の御宇7年8月10日、勅願により創建されたと伝えている。
●御祭神
八重事代主神、大己貴神、天穂日神を主祭神として、誉田別神(応神天皇)伊邪那美神、白山比売神、水分神、高野神、高お神(神石村大字市の村社六所神社の祭神で、明治42年10月26日に合祀)を併せてお祀りし、また境内神社の宿祢神社には、野見宿祢神、相殿に石津王、猿田彦神を、天満宮には、菅原道真公を、お祀り申し上げています。
●御由緒
当宮は延喜式神名帳にも見られる日本最古の戎神の宮として、広大無辺の御神徳を垂れ給い、石津の地はもとより付近各地の人々の心の拠り処として篤い崇敬を集めております。
社伝を抜萃しますと
・往古、事代主神、此地に降臨のとき五色の神石を携え来りて此に置き給う、故に石津と名づく。
・人皇十一代垂仁天皇の御宇、天穂日命十四世孫、野見宿祢を当宮の神主と定め給う。
・仁徳天皇、石津に行幸あり、祈年穀の祭には毎年官弊使を立て給う。
・孝徳天皇、白雉三年(西暦652)に当宮に行幸ましまして此時、御手洗川に御鏡を落とし給う。是れに依りて御手洗川を益鏡の小川と云う。(石津川)
・孝謙天皇、天平勝宝元年(西暦749)に行幸し給い同五年春正月、神主紀伊守を内裏に召して禄を給う。同天平宝字元年夏5月、紀伊守に藤原朝臣の姓を給いて従三位大納言を授けられ、河内の狭山・野田の二村を神領とせられる。
当時は社頭も広く、新堂の岸を西にして、それより八町四方に及ぶ。大社と云える事は、柱は太く板は厚く造り、社頭は巍々とし殿宇は厳然として広大結構類いなく、出雲大社に次ぐ御社なればなるべし。その後兵火の為めに社殿悉く鳥有に帰し、広大なる神領も失われ、後、漸次建営せり。
・後醍醐天皇行幸し給ひて奉弊し給い、その上、神官に冠、及び沓を賜わる。
・元禄十年(西暦1697)征夷大将軍、徳川綱吉公より神田八石九斗余の貢米を免ぜられ朱印地を賜わり、河内四郡及び堺の付近は悉くその氏子なりき。
・桜町天皇の寛保三年(西暦1743)飛弾守石津連、陸野茂基を従六位下に叙せらる。以上のように朝延武家の尊崇が驚く、これは偏に御神威の重きによるものであります。
●御神徳
八重事代主神=大国主神の御子。
出雲国で父神、大国主神を輔けて国政に与ったが、天照大神が国土を天孫、瓊瓊杵尊に献上するようにと仰せられた時、父神に勧めて、その命を奉じさせたと伝えられている。即ち我が建国の基礎と君臣の大義とを確立されたと云うべきであって、国譲りの大功によって高皇産霊神、保食神たちと同列に皇室の守護とせられたのであります。
故に古来より、国土開拓の神として農工商などすべての産業繁栄、五穀豊穣、開運招福、長寿健康、交通航海の守護神として、又縁結びの神として“戎さん”の敬称でよばれ、すべての人々に親しまれて、広く厚く信仰をされています。
大巳貴神=大国主神の御別名。八重事代主神の御父。少彦名神と協力して国家を経営し、畜産の業を起こし、鳥獣昆虫の災異を穰ひ医療、医薬、禁厭(まじない)などの道を教えられ、すべての民が悉くその恩沢を蒙りました。又、天照大神の命に随ひ御子の事代主神とはかって、国土を天孫瓊瓊杵尊に献上され、その後出雲杵築の地に隠退されました。
そこで天照大神が大国主神のために壮大な宮殿をたてられ、天照大神の御子、天穂日神をして奉祀させられたのが、出雲大社の起源とされます。
大物主神・大国魂神・八千矛神など数多くの御別名(御神名)があって、それぞれの御神徳があり、特に“戎さん”と並んで、諸業繁栄、開運招福、縁結びは勿論のこと、医薬の祖神であられますから諸病を癒し給う事著しく殊に婦人の病気平癒、安産、子授け、そして延命などの福神として限りない崇敬と信仰を集められています。
天穂日神=天照大神の御子
天照大神の詔命を奉じて、天孫降臨に先だち選ばれて出雲国に降り、大己貴神(大国主神)と国土奉献の交渉に当られて和議を成立されました。
のち出雲大社の主神である大己貴神(大国主神)祭祀の祭主となられ、出雲国造の祖として栄え、その神裔は連綿として継承されています。 当宮は大昔の時代にこの御神霊を勧請申し上げておりますが、国土安泰、災難厄除け、家内安全、産業(農・工・商)繁栄、殊に外交の神として皆様の信仰が篤いのです。
野見宿祢神=天穂日神の孫(十四世)
第十一代垂仁天皇(西暦前29〜西暦70)の時、当麻の蹴速と云う男が「我が力に勝れる者は、四方の国中にいないだろう」と誇っているのを天皇がお聞きになり、出雲国の大勇力ある野見宿祢を召されて力競べをさせられ、宿祢は見事に蹴速を負かし、その功を賞して蹴速の領地を賜わる。(これが相撲の始まりとも伝えられている)又、当時は天皇・皇后が崩御されると、仕えていた側近等は生きながら埋められる殉死という悪習がありましたが、これを埴輪を作って殉死にかえる事を献言。天皇は大いに喜ばれ、御採用になる(これが埴輪の始まり)など、智勇共に優れていました。その後、当宮の神主に任名されました。
勝負(相撲・野球・ゴルフなどの競技など)や知恵、発想(アイデア)の祖神として又、古来より出世開運の神として特に相撲力士の信仰が篤いのです。
菅原道真公=野見宿祢神の子孫。
平安前期、詩文に長じた学者・政治家として菅公の名で知られています。宇多天皇に仕えて信任を受け、醍醐天皇の時一層重用せられて左大臣、藤原時平と並んで右大臣に任ぜられましたが、延喜元年(西暦901)時平の中傷により大宰権帥に左遷せられ、同3年2月25日、59才を以て配所で亡くなりました。
延長元年(西暦923)になって道真公の免罪は晴れて白日の輝くときがきました。鎌倉時代に入ると、進んで免罪を救う神として利生を垂れ、どのような所願でも必ず成就させるという慈悲救済の神としての域に到達し、文道・諸道・芸能などの神として異例の尊崇を受けられています。
猿田彦神
天孫降臨のとき、瓊瓊杵尊を筑紫の日向の高千穂に導き奉り後、伊勢国五十鈴川上に到り給う。
容貌魁偉で鼻長七咫、身長七尺余、口尻赤く光り、眼は鏡の如くであったと伝えられています。
天孫を案内した故事から、道は日神の道、教えは猿田彦神の導くところとして崇められ、寿命・芸能・教導・交通安全などの守護神と仰がれています。
●社紋(丸に三ッ柏)
柏は古来より長寿の縁起のよい木として、その葉は神饌などを盛る器として重宝され、当宮の社紋「丸に三ツ柏」は延命長寿の御神徳を表しています。
●主な建造物
・御社殿 建坪延138.92u(42坪02)鉄筋コンクリート造平家建銅板葺
・社務所・参集所
建坪延377.20u(ll4坪10)鉄骨造二階建日本瓦葺
・御輿庫・資料庫
建坪延38.50u(Il坪65)鉄骨造平家建日本瓦葺
・御倉庫建坪延59.20u(17坪90)鉄骨造二階建カラーベスト葺
○以上の建造物は、当宮御鎮座二千四百六十年大祭、並びに御大典奉祝記念事業として、御社殿は旧御社殿跡に、平成三年十月御造営になりました。
・境内地神社敷地1,844.33u(557坪9合1勺)
・飛地境内御旅所204.59u(61坪8合9勺)
・境内神社野見宿祢神社御祭神
天満宮御祭神
●主な祭儀
月日   祭名行事
1月1日  歳旦祭・初詣で   神社に参拝して一年の幸を祈る
1月9・10・11日 戎例大祭  古来よりの戎・大国の絵像授与
2月節分 節分祭   厄除護摩木焚上神事・豆撤き等
2月25日 天満宮神事 九州大宰府で薨去された御命日
6月23日 夏越祭・大祓式人形・茅の輪くぐり等の祓神事
7月28日 野見宿祢神事祭典時、宿祢神神像=画像拝観
10月4・5日 秋季例大祭御旅所への渡御もある秋祭
11月15日(前後約1週間)七五三祝祭ご加護に感謝し成育を祈ります
毎月10日月次祭参拝者の皆様と大祓詞を唱える

由緒書



石津神社

いしずじんじや 大阪府堺市石津町。
八重事代主命・大己貴命・天穂日命を祀る。当社は石津のえびすさんと称され親しまれている。社伝によると、御祭神が当地の海岸に寄りつかれたとき、五色の石を携えて来られたという。一種の寄神伝説の一つといえよう。江戸慕府より神田の供進をうけ、八石九斗の貢米を免ぜられていた。例祭10月5日、1月10日の十日戎祭を行っている。

神社辞典



石津神社

当社の起源は古く、延喜式内社です。主祭神は八重事代主命(戎神)・大己貴命(大国主神)・天穂日命で、末社に野見宿祢命、菅原道真公が祀られています。
石津の地名は、戎神がこの地に降臨した際、五色の神石を携えてきたことに始まるとされています。
垂仁天皇(紀元前29〜70)の時、天穂日命十四世の孫の野見宿祢命が神主と定められました。野見宿祢命は、相撲の起源とも伝わる当麻蹴速との力比べや、天皇の埋葬時に埴輪を置くことを考案した人物としても知られています。
明治42年(1909)には神石市之町の村社を合祀し、現在も、この地域の氏神として広く信仰されています。
江戸時代に刊行された名所案内記である「和泉名所図会」(寛政8年(1796)刊)には、境内のすぐ南側を石津川が流れ,その水を用いたこの地域の地場産業である「石津の晒し」が行われていた様子が描かれています。

社頭掲示板



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