石津神社
いしづじんじゃ


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【御由緒】

石津神社は延喜式(西暦927年・平安時代)神名帳に見られ、神社に伝わる古文書に「往古、事代主神(戎神)が此の地に五色の石を携え御降臨され、この地に置き給う」、故、此処を「石津」と名付く。
 第5代孝昭天皇の7年(紀元前469年)8月10日の神勅(天皇の御命令)により祭礼を行う{日本最古の戎宮の由縁}以降、月の10日を月次祭(月々のお祭り)として現在に引き継がれています。
 第11代 垂仁天皇(紀元前29年〜西暦70年)の御代には、出雲の国に住む野見宿祢が、当麻の蹶速と力競べで功を賞して領地を賜り、後に当宮の神官となる。「相撲」の祖とも言われ、又、天皇崩御の際の殉死の慣わしを「埴輪」によってこれに変える事を野見宿祢が献言、土師部の祖とされ、後世、菅原姓に引き継がれる。第16代仁徳天皇の御代行幸啓あり、祈年穀祭に毎年官幣使を立て給う。第36代 孝徳天皇白雉3年(652年)当宮行幸啓の際、御手洗川の御鏡落とし給う是に依りて御手洗川を益鏡の小川と云う(石津川の由縁)。第46代孝謙天皇の勝宝元年(749年)行幸啓あり。同五年神主紀伊守を内裏に召し禄を給う。同天平宝宇元年、紀伊守に藤原朝臣の姓を給ひ、従三位大納言を授く、河内の狭山、野田の二村を神領とせられる。当時の社領は八町四方に及び、殿宇は、厳然として広大類い無く、出雲大社に次ぐ御社なれば、石津大社とも云える所以なり。その後の幾度もの兵火により壮大な社殿も烏有に帰し広大な神領も失われつも、漸次建営せり。第96代後醍醐天皇行幸啓し給ひ、奉弊し給ふ、その上、神官に冠及び沓を賜る。徳川5代将軍 綱吉公より元禄10年(1697年)朱印地賜り、河内四郡及び堺の付近は悉く石津の氏子なりき。第115代 桜町天皇の寛保3年(1743年)神主 飛騨守 石津連 陸野茂基に従六位下に叙せられる。              「寛保2年壬戌の古文書、巻三・石津大社畧記より」
公式HP


【石津神社】

本社は、主祭神に八重事代主命(戎神)、大己貴命(大国主神)、天穂日命、末社に野見宿根、相殿に石津主命、別に天満宮を祀る、延喜式神名帳記載の神社です。 石津の地名は、戎神がこの地に降臨した祭、五色の神石を携えてきたことに始まるとされています。また、その戎神は、孝昭天皇7年(紀元前469年)8月10日に、勅願によりこの地に創建された日本最古の戎神とも言われています。 垂仁天皇(紀元前29〜70の時、天穂日命14世の孫の野見宿祢が神主と定められました。宿祢は、相撲の起源とも伝わる当麻の蹴速との力比べや、天皇の埋葬時に側近を墳墓の周りに殉葬する代わりに埴輪を置くことを考案した人物としても知られています。 孝謙天皇が天平勝宝元年(749)に行幸した際、神主は藤原の姓と、従三位大納言の称号を受け、河内の国狭山、野田の二か村を神社領としました。また、後醍醐天皇の行幸の際には冠・沓を贈られました。当時、境内地はおよそ1km四方に及び、氏地も石津周辺の地域に広くあったと社に伝わる古記に記されています。明治42年(1909)には神石市之町の村社を合祀し、この地域の氏神として広く信仰されています。 江戸時代に刊行された名所案内記である「和泉名所図会」(寛政8年-1796年刊)には、境内のすぐ南側を石津川が流れ、その水を用いたこの地域の地場産業である「石津の晒し」が川原で行われていた様子が描かれています。
社頭掲示板





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