垂仁天皇の御宇御座船を鴨ケ池の辺に製造し、三島明神の神像を賜わり、是より三島明神と称すという。 当社二座について『神祇志料』に「其一は今仁科浜村の沢田にあり、総社八幡といふ。仁科五村の総社也。一は同地に坐地主神、三島明神是也。」とあるように、明治初年まで三島明神・総社八幡と称されていた。 往昔は鴨ケ池の傍にあって両社別殿であったが、慶長14年(1609)津波のため現社地へ遷座した。 文政6年(1823)3月一棟両扉で造営した。 |
佐波神社 佐波神社(延喜式内・郷社) 所在 西伊豆町仁科1870番地 祭神 積羽八重事代主命 廣幡八幡大神 概要 本殿神明造り、境内1316坪。 境内には、西南の役、日清戦争等の戦没者慰霊碑と招魂社が建立されている。 「子孫繁昌・息災延命・諸願成就……」等々、この地域に住む人達の守護神としての信仰と歴史と文化を偲ぶことができる。 縁起 「延喜式内社」としての「神明帳」に登録されて年代も古く由緒ある神社であり、伊豆神明帳に佐波神社従四位上「志での明神」「にいの明神」二座、佐波は地名であり澤である。 八幡宮については「神宮皇后三韓を征し給う時、初めてこの地に祀る。 仁科の荘、総社八幡旧那賀郡十七ケ村の総鎮守也、五百年前迄は海辺にありしに、海溢(津波)にて今の地に止まる。依て三島明神と祠を並べて立つ」とあり、一方三島明神は地主神であり古老の口碑、社伝として「一蜘子葦ノ葉ニ乗リ、鴨ケ池ヲ渡ヲ診テ始メテ船ヲ此ノ地に造ル。人皇十一代崇神天皇ノ御座船ヲ鴨ケ池ノ辺リニ造ルト、天皇ヨリ三島神ノ神体ヲ賜リ其造船ノ地ニ祀祭ス、是レヲ佐波神社トス」と記載されている。 三島宮・八幡宮はそれぞれ別殿に鎮座されていて、二社が鴨ケ池より現社地に奉遷し造営されたのは棟札「奉祈造立一字八幡大菩薩」「奉祈 造立一字三島大明神」から見ると慶長14年(1609)である。 またいつ一社に合祀されたのかを棟札から見ると文政6年(1823)3月である。 祭礼・行事 例祭日 11月2日・3日 人形三番叟の奉納 (昭和47年3月 県指定 無形民俗文化財) 社頭掲示板 |
佐波神社二座 佐波は假字也、和名鈔、(郷名部)田方郡佐婆、○祭神詳ならず〇二座各々に在す、一座は大澤村に在す、(国図志)、一座は濱村に在す、(志)例祭 伊豆志に、一座大澤里ノ白川ニ坐ス、山王ト子ノ神也、寛正2年、文明6年、大永元年ノ棟札ニ、子ノ神ヲ宇波明神、山王ヲ山神トアリ、上古高見山野ノ段ト云処ニアリシト云フ、』一座濱村ノ澤田ニアリ、神功皇后韓國ヲ征シ玉フ時、始テ此ニ祀ル卜云フ、大永7年ノ棟札ニ、仁科庄本郷総社八幡トアリ、今ニ仁科五村ノ総鎮守也、五百年前マデハ海岸ニアリシヲ、津波ニテ今ノ地ニ止ル、と云り、 神社覈録 |
郷社 佐波神社 祭神 積羽八重事代主命 相殿 八幡官(祭神不詳) 一に三島明神と称す、創立年代詳ならず、但式社考証は、三島明神を地主神也と記し、八幡を神功皇后三韓征伐当時の創立とす、延喜の制並に小社に列せられ、式に佐波神杜二座と見えたり、佐波は地名にして、今社地付近を澤田と称す云々、当国神階帳に従四位上しての明神、從四位上にゐの明神と見えたるは当社にして。しては神田にして、社地の旧称、にゐは荘名仁科に起因せるものなるべしといふ、口碑に云く、垂仁天皇の御宇御座船を鴨ケ池の邊に製造す、時に三島明神の尊像を賜はり、是より三島明神と称すと、元より伝説に過ぎざるべしといへども、近く迄古神像及本地智勝佛の橡ありしといふ、大永2年及天正17年の棟札を蔵す、並に地頭の建立たり、八幡宮大永7年の棟札に、「仁科荘本郷総社八幡」と見えて、当時仁科一郷の総社たりしが如し、近世仁科五村の総嶺守だり、五百年前は海涯に在りしが、海溢の為め当社に鎮祭せられしといふ、明治6年8月郷社に列す。 社殿は本殿、拝殿、庁屋を具備し、境内は812坪(官有地第一種)あり。 明治神社志料 |