街中小社で四つ角に鎮座している。 山上の石徳高神社から雄徳山の西の麓の珍野(ちむの)へ遷座し、そこから雄徳山の北麓より600mほど北西に離れた丸山に遷し、さらに北江間町屋の現在の場所に遷座された。 室町期の半ごろまでには現社地に遷祀されていた。 石徳高神社は、現在では、雄徳山の麓の東と北とに分祀されて、それぞれこの神社を山頂に祀つていた人びとの子孫の住む里に、東にあるのが守山八幡神社、北にあるのが豆塚神社として鎭座している。 |
豆塚神社 鎮座地 伊豆長岡町北江間小字町屋 御祭神 石徳高命 例祭日 4月3日 由緒 創建の年代は詳ではないが明細帳に依れば大明神と書いた古額在り、又文明4年と記した神器あり。 昔は雄徳山大男山に鎮座せしを幾度か遷祀し江間小四郎義時は崇敬厚く現地豆塚に遷し大明神と称せり。 明治6年9月郷社に定められ大祭には県よりの奉幣使により神事を行う。 往時は江間郷北条郷は一郷にて狩野川の流れが中間を流れるようになり、総鎮守を江間郷に北条郷は守山の地に遷し祀った。 社頭掲示板 |
豆塚神社 豆塚大明神と崇拝されている豆塚神社は、平安時代の「延喜式」神名帳に記されている「石徳高神社」に該当する由緒ある神社です。「相模守であった北条義時が小池堀丸山の霊廟をこの地に移し再建した」と記された江戸時代の梁銘(元文5年[1740])が現存しています。 「吾妻鏡」では、青年期の北条義時は「江間小四郎」という名で登場しており、「江間」とは深い関わりがありました。 伊豆の国市 社頭掲示板 |
郷社 豆塚神社 祭神 石徳高命 豆州志稿、当社を以て式内社石徳高神牡なりとして云く、 「往昔南江間村雄徳山に鎮座せりと云、雄徳は石徳の転訛ならむ、山嶺に御宝殿と称ふる厳石あり、神の鎮座の域と伝ふ、山麓に神戸、神田、神伝田、忌馬場、鳥居前、鳥居内等の称呼存す」 初めは雄徳山に鎮座あらせられ、江間の郷の総鎮守たりしが、後ち分祀して二社とす、一は当社、他は寺家村八幡神社となりしと、蓋二社に分祀せるは、江間、北條の地、往古は一郷にして、共に和名抄所載の依馬郷内たりしが、狩野川其の中間を流るゝに及びて、自ら分れたるなり、依りて総鎮守たりし雄徳山鎮座の石徳高神社を、江間にてはチム郵に奉遷し、北條にては寺家村に奉遷せるなりと、近世二三の異説なきにしもあらずといへども、斯説最も有力なるが如し、國中有数の大祠にして、大明神と記せし古額を有し。文明4年の銘ある金鼓を蔵せり、明治6年9月郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿其他庁屋等を具備し、境内300坪(官有地第一種)あり、因みに云ふ、社名豆塚は地名に依りしものなり。 明治神社誌料 |